街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その6 角田家

いま「PLUS アンカー」がある一帯は、角田さんの祖父が明治の末に買い取って住宅兼染色工場にした。「角田染工場」といった。町中にもかかわらず敷地は約230坪と広大で、当時の屋敷は江戸時代末期に建てられたものだった。

染色工場は戦争中に廃業に追い込まれた。布を染める金属製の巨大な釜は供出させられ、従業員も次々に兵役に取られて事業を続けることが出来なくなったのだ。角田家は戦後、羽織の裏地を染める捺染業を家業とするようになった。

昭和37年(1962年)、本町通近くにあった家屋を解体して奥に新しく家を建て、空いた敷地を衣料のチェーン店に貸した。この時新築されたのがいまの「PLUS アンカー」である。

といっても、角田家が経済的な苦境に追い込まれたわけではない。新しく建てた家も贅をこらしたものだった。床の間の柱は欅(けやき)で、客間に使われていた部屋の4隅にある柱は1本の丸太を4本に割ってつくられており、節が1つもない。応接間などのガラスは波をうったようにも見えるイタリア製で、マントルピースのそばには大きなステンドグラスがはめ込まれていた。

庭にも惜しげなく金を投じた。当時の記録をひもとくと、樹木や灯籠、石などを含めた造園費用総額は376万9000円かかったとある。厚生労働省の統計によると、その年の大卒初任給は1万7800円。2019年春の大卒初任給は21万2304円(労務行政研究所)でざっと12倍になっている。これをもとに造園費用を今の金額に直すと4520万円にも登る。普通の生活人には天文学的な造園費用である。

角田さんはこの家に心からの愛着を持っていた。豪邸だからではない。

角田さんがこの場所を離れたのは東京の大学に学んだ4年間だけである。古い家で生まれ、大学を卒業すると古い家に戻った。長男で家業を継ぐのが当然と思っていたから地元で仕事の修行に出た。ちょうど結婚する頃、父が建坪60坪(約200m2)の新しい家を建てた。そこで新婚生活を始めた。子供が生まれたのも育てたのもこの家だ。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その7 灯りがともった

客の多い、賑やかな家で育ったからだろうか。角田さんは人が集まってワイワイがやがやする雰囲気が大好きである。だから、捺染業もたたんですっかり人の出入りが少なくなったのが何より寂しかった。いや、自分だけではない。この家もきっと寂しい思いをしているに違いない。

「この家に、なんとか賑やかさを取り戻す方策はないだろうか? 知恵を貸していただきたい」

家と土地を高く売ってくれ、ではない。できるだけ高く借りてくれる客を捜して欲しい、でもない。不動産会社への相談として、角田さんの話は型破りだったろう。

いくら型破りではあっても、持ち主の意向である。アンカーは社員を集めて知恵を絞った。しかし、型破りの問いかけに答を見いだすのは難事である。どう考えても、これだという解決策が出ない。出てくるのは、

「コンビニに貸しては」

「レストランチェーンを誘致しては」

「この家は広い。それに敷地も充分にある。そこで、住宅の外観は変えず、内装に手を入れて高齢者介護施設にする。そして、敷地の隅に小さな家を建てて角田さんには住んでもらう」

その中でいえば、角田さんの家への愛着を考えれば、高齢者用の施設が一番近かったろう。愛着のある家はそのまま残るし、たくさんの高齢者が住み着いて賑やかになるからだ。角田さんも、その計画が最も気に入った。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その8 船出

「ホントに、明日にも工事契約をしようというときになって、自宅ビルの1階でカフェを開くことに、突然違和感を感じたんですよ。何となく無理があるような気がしたんです」

設計事務所がまとめてきた設計図ではとてもオシャレなカフェになるはずだった。だが、オシャレになればなるほど、お年寄りがそこで雑談に花を咲かせているイメージが薄らいでいたのだった。オシャレなカフェにお年寄りが集うイメージがどうしても湧いてこないのだ。何かが、違う。

「そんなことを考えていたら、活用策が行き詰まっていた角田さんのお宅が浮かんだんです。あ、私のやりたいカフェにはあの家がピッタリなんじゃないか、って」

まず、夫の貴志さんに相談した。

「それ、いいね。うん、私もいまの場所には何となく違和感を感じていたんだよ。なるほど、角田さんの古民家をカフェにするのは面白い。ママ、それ、いいと思うよ」

計画が最終段階になりながら、2人して、

「このまま計画を進めてもいいのだろうか?」

と感じていたのである。そして、その打開策でも2人の考えが一致したのだ。2人は改めて、それまでとは違った目で角田さんのお宅を見せてもらった。2013年暮れか14年はじめのことだ。
50年以上も前に建てられた古い家である。間取りはいまの住宅のように各部屋の採光を考えたものではない。南側に並ぶ応接間、客間、書斎、玄関には日が差すが、各部屋を繋ぐ廊下、その北側にある部屋には日が届かず、昼間でも薄暗い。
だが、応接間の南側にある縁側が広々としていた。なぜか、それが大変に魅力的だった。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その9 ワークショップ

角田さんの引っ越し先が見つかった2014年夏の初めから改装工事が始まった。

今度は、設計士は入れなかった。角田さんの住み慣れた家が、私のカフェに一番ピッタリするという自分の「感」を頼って、自分でラフなスケッチを描き、知人に図面を起こしてもらった。

玄関を入ってすぐ右の、それまでは台所、ダイニング、書斎に使われていたスペースは、各種の教室に使えるよう1つにまとめた。縁側のある8畳と6畳の応接間は間仕切りを取り、縁側を含めた大きな部屋にした。ここが今のカフェスペースである。寝室だった部屋はそのまま畳敷きとし、和風の教室に使えるようにした。仏間は琴の教室に使おうと思った。

改装工事は、すぐ近くにあった、腕自慢の職人さんを紹介するカフェ「ぷらっと」を通じて、すべて市内の職人さんたちに頼んだ。和の味を活かすために漆喰で壁を塗り、新しくキッチンとトイレを作った。

「壁の塗り方」のワークショップを開いたのは改装中のことである。

「みんなに利用してもらうカフェだから、店の内装段階からみんなに参加してもらおう」

と雅子さんが考えた。

「漆喰壁の塗り方、教えます」

とクチコミで宣伝したら、小学生の子供からお年寄りまで、何と300人もの人が集まった。こんな大人数が一度に作業は出来ない。3つのグループに分け、3日間で壁を塗ってもらった。先生は「ぷらっと」を通じてやって来た専門の塗装屋さんである。

毎回100人が小手を持ち、それぞれ割り当てられた部分に漆喰を塗りつける。電気はまだ通じてい

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ない。トイレも出来ていない。それでもみな嬉嬉として働いた。

「なかなか平らにならないんだけど、先生、どうやったらいいの?」

鼻の頭にまで漆喰を塗ってしまった小学生が「先生」に質問する。

「先生、こんなもんでいいかね?」

右手に小手を持って壁の前に立ちはだかるおばあちゃんは、すっかり職人気取りである。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その10 何も知らなかった

いま「PLUS アンカー」は賑やかである。当初はまばらだった客足も、開店直後に地元紙が記事にしてくれて急速に増えた。出すのは飲み物とランチだけなのだが、1ヶ月ほどは満員御礼が続いた。

その賑わいぶりに刺激されたのか、家への愛着のためか、家主の角田さんも週に3、4回は客として顔を出し続けている。それだけでなく、庭の手入れは角田さんが自ら引き受ける日課となった。毎朝6時前後に顔を出し、1人で庭木を剪定し、石を整え、いつ客が来てもいいように準備する。

採算もトントンまでこぎ着けた。雅子さんの思い、角田さんの願い、そしてふみえさんの蒔いた種はみごとに花開いた。

だが、である。それだけなら、単なる人情話にすぎない。すてきな独り暮らしのおばあちゃんがいた。心を揺さぶられた人が、そんなお年寄りたちの力になりたいと思った。たまたま、所有主が強い思い入れを持つ古民家がいい場所にあった。みんなの思いが触れあってカフェができた。どこにでもある、とまではいうまい。しかし、探せば似たような話はいくつも見つかるに違いない。いや、人情話ということなら、「PLUS アンカー」を凌ぐ感動実話だって、全国津々浦々に目をやればいくらでも出てくるのではないか。

そうであれば、「きりゅう自慢」に取り上げるほどの話ではない。

だが、開店から間もなく、「PLUS アンカー」は人情話を越え始めたと筆者は考える。それは、東日本大震災の被災地から訪れた2人の青年がきっかけだった。