街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その16 急増する名刺

「PLUS アンカー」はコーヒーが飲めて食事が楽しめるだけのカフェではない。華道や琴、着付けなどの芸事の教室を開きたいという人がいて定期開催されるようになった。

「ここで婚活をやってみたいんですが」

という若者もいた。雅子さんが手伝って、すでに3組のカップルが出来た。
自前のイベントも始めた。バーベキュー・パーティ、利き酒会、コンサート……。
様々な、これまで見知ったことがなかった人たちが「PLUS アンカー」を楽しみ始めた。貴志さんもできるだけ顔を出すようにした。

「私、仕事柄人様と交換した名刺の数はかなり多いのですが、『PLUS アンカー』を始めてから名刺の増え方に拍車がかかりました。しかも、それまでは知らなかった世界の方がほとんどなんです」

「アンカー」社内に「PLUS アンカー」のプロジェクトチーム=「アンカー レクリエーション委員会(アンレク)」=を作り、「PLUS アンカー」での仕事も社員の正業にしたのはこの頃である。委員会のメンバー用の手当も新設した。「PLUS アンカー」での仕事も査定の対象に加えたのはもちろんである。

「そうですか、こちらは不動産の『アンカー』さんが経営されているんですか」

雅子さんや、店長の二渡晴子さんを通じて、「アンカー」を知り、身近に感じる人も日を追って増えた。

「実は、家を探しているんです。いま住んでいるところが手狭になってずっと迷ってたんですが、『アンカー』さんにお願いしたら安心できそうなので」

1年ほどたつとそんな相談がわきだし始めた            。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その17 まちの結節点に

貴志さんが、「PLUS アンカー」には自分の計画には収まりきれない大きな可能性があることに気がついたきっかけも、雅子さんと同じだった。不動産会社「アンカー」の一部門として掌の上に乗せているつもりだったカフェがいつの間にか自由に跳び跳ね始めたのである。

「知らないうちに、ここが町の人たちの舞台になっていたんですよ」

「その12」で取り上げた市の若手職員が始めた朝の勉強会「Kiryu Asa Café plus+」も「ざっくばらんな飲み会」も、貴志さんたちアンカー勢が企画したものではない。普通の人たちに最先端の科学を知ってもらおうと群馬大学理工学部の先生たちが開いていた「サイエンスカフェ」の会場は市内を転々としていたが、いつの間にか「PLUS アンカー」に定着した。
そして、それぞれの催しが、それぞれ全く違った市民、時には市外の人を「PLUS アンカー」に呼び寄せる。呼び寄せられた人たちの中から

「こんなことに使わせてもらえませんか?」

という声がかかり始める。

「私、不動産業を起業して30年以上になっていろんなことを知っているつもりでしたが、私が知らないこと、知らない人がこんなにたくさんいて、こんなに多彩な活動があったのか、と驚きました」

その驚きは間もなく確信に変わった。

「桐生は奥深い。底力がある。桐生は必ず再生できる。『PLUS アンカー』はその発進基地になるはずだ」

織田信長は居城を設けた美濃国・岐阜で楽市・楽座を始めた。商工業への規制を緩め、町人が自由に経済活動を出来る環境を整えて城下町の繁栄を築いた。
殿様気質を自覚する貴志さんは、「PLUS アンカー」を根城にした桐生のまちづくりを探り始めた。狙いは信長と同じである。桐生の経済活動を活発にするのだ。ただ、信長は商工業者の活力を引き出すことを考えた。だが貴志さんは市民の活力を引き出す必要はない。すでに市内にはエネルギーがある。殿様は黒子になって、まちのエネルギーが自然に溢れ出す道筋作りに一所懸命取り組み続ければいい。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その18 UNIT KIRYU

2019年6月3日、「PLUS アンカー」に本社を置く「UNIT KIRYU」が産声を上げた。資本金はわずか40万円。いまのところ社長と会長しかいないちっぽけな企業である。

だが、外見だけで判断してはならないのは、人も企業も同じだ。この会社は、「PLUS アンカー」を通じて得てきたものを形にし、桐生のまちづくりを推し進めたいという川口貴志さんの「野望」が込められた会社なのだ。
ひょっとしたら、明日の桐生の基盤造りを担う可能性を孕んだ会社なのである。

きっかけは、地元金融機関から声をかけられたことだった。
一般財団法人民間都市開発推進機構(MINTO機構)は「民間都市開発の推進に関する特別措置法」に基づいて1987年に設立された機関である。国土交通省の別働隊といってもいい。民間の都市開発を支援するのが主な事業だ。
そのMINTO機構の事業の1つに、「まちづくりファンド支援業務」がある。地域金融機関とMINTO機構が連携して基金を造り、資金面でまちづくりを後押しする。この制度に、衰退する桐生に何とかてこ入れしたいと願う地元金融機関が応募し、両者が半額ずつ出資して6000万円のファンドを造ることになった。

しかし、金融機関にまちづくりのノウハウはない。全国を対象に事業を進めるMINTO機構にも、それぞれ違った歴史、文化、産業、地理などを抱える地方都市すべてに通用するまちおこし策を期待するのは無理である。
桐生のまちおこし事業の担い手が要る。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その19 まちおこし

話を少し戻す。
そもそも、まちづくりとは何をすることだろうか?
川口さんは長い間、この問いに解を出そうと自問自答し続けてきた。

人通りがなくなった中心商店街に賑わいを取り戻そうという取り組みは数多く試みられてきた。だが、なかなか成果に結びついていないもの確かだ。そもそも、商店街に賑わいを取り戻すことがまちおこしなのか?
まちおこしとは、いろいろな意味で「選ばれる」まちにすることではないか? いま、いろいろな人たちが自分の生き方を求めて模索している。その模索の先に浮かび上がるまちのひとつになることではないか?
では、桐生に相応しいまちおこしとは?

「PLUS アンカー」で様々な人との繋がりができて、川口さんの脳裏に桐生のまちづくりの輪郭がおぼろげながら浮かんできた。
桐生は繊維産業の町である。かつては機屋や染色業、買継商(産地商社)、繊維機械工場、修理工場などが軒を連ねて全国一ともいえる賑わいを謳歌していた。言い換えれば、社長さんが山のようにいた町だった。
繊維産業の中心が日本を離れてアジアに移るにつれて、経営者である親が、あるいは後継者になるはずだった子供が事業の将来に見切りをつけるようになった。事業転換に成功したり、世界に誇る繊維製品を作り続けたりしているところもあるが、その数は少ない。

「だとすれば」

と川口さんは考えた。

「桐生の課題は後継者と事業承継ではないか」

いままで生きながらえている企業には10年先も20年先にも生き延びてもらいたい。

「事業を継ぐのが親族ではなくてもいいはずだ」

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その20 「PLUS+ アンカー」って?

長くお読みいただいた「街の灯」も今回が最終回である。という段になって、迂闊な筆者は大事なことを忘れていることに気がついた。
「PLUS アンカー」の「PLUS」って、どういう意味なんだろう? 不動産会社「アンカー」に何を付け加えたというのだろう?

歴史的事実としては、命名作業は次のように進んだ。これからの説明をお読みいただく前提として、このページの見出しにある「PLUS+ アンカー」の表記は、ページ作成に使っているWordPressの機能の制約で「+」を小さく出来なかったことをお断りしておく。本当は、本文にあるように「」と小さく表記するのが正しい。

「さあ、名前を決めようよ」

と「アンカー」社内で声を出したのは貴志さんだった。改装工事が進み、そろそろ看板を作らねばならないころだった。
当初は「アンカー」を店名から外す予定だった。ところが、それを聞いた人たちが

「アンカーが運営していると明示してもらった方が安心だ」

と言い始めた。
そもそも「アンカー」とは船の碇(いかり)のことだ。船が漂流するのを防ぐために海に投げ込まれる碇は、船にとっては最後の「頼みの綱」である。

「みんなの頼みの綱になる会社にしたい」

創業時に貴志さんが選び抜いて決めた社名だ。いわれてみれば、新しく開くカフェだってそんな存在になりたいではないか。よし、「アンカー」を店名に入れよう。

社内から様々な案が出た。その中に「PLUS アンカー」があった。

「これだ!」

貴志さん、雅子さんをはじめ全員の意見が一致した。

貴志さんは宣言した。

「だから、アンカーに小さな『+』をプラスする。いまの『アンカー』では出来なかった何かを加える場所。本当は大きな『+』の方がいいが、最初は欲張らない。小さな『』から出発して、いつかは大きな『+』に育てよう。それに、カフェのお客様にも小さくてもいいから『』をプラスできる場所にしていこう」