桐生えびす講 その6 関東一

桐生えびす講は「関東一の賑わい」を自称する。関東一? 目を東京に移せば、三社祭、神田祭など、人であふれかえる祭りは数多い。明治神宮や浅草寺には300万人前後の初詣客が押し寄せる。

では、桐生えびす講は?

かつては

「40万人の参拝客」

といわれたこともあるが、その数はお手盛りが過ぎるらしい。世話人総務の岡部さんによると

「お札の売れ行きや監視カメラの映像の分析から試算すると、20万人前後だと思います」

では、

「関東一の賑わい」

とは何なのだろう?

一つは境内や参道の狭さによる人混みではないか。桐生西宮神社は、式内社(平安時代に編纂された「延喜式」に記載された神社)である美和神社の境内摂社である。つまり、美和神社の境内に建てられた。この境内がすこぶる狭い。

中でも、桐生西宮神社の社殿にいたる61段の上り階段は幅11m程度しかなく、ここが登りと下りに分離されている。上り階段は幅7mほどなので、冒頭の写真のようにえびす講の開催中、時間によるとこの階段が人の列で埋まってしまう。列の最後尾は61段下の山手通りにまではみ出し、参拝するのに40分、1時間待ちとなってしまう。それでも参拝客は、アリの歩みが100mの桐生祥秀選手のスピードにも思われる列の中で、なかなか巡ってこない自分の順番を待ちながら半歩、一歩ずつ前に進む。

この混雑ぶりは、確かに関東一かも知れない。

の人混みが「関東一」を支える

本町通から桐生西宮神社の鳥居前に続く参道は、別命「えびす通り」というが、幅は7mほどしかない。その両側に露天商の屋台がずらりと並び、参拝客はわずかに残った隙間を、ともすれば行き交う人と肩を触れあいながら神社を目指す。

鳥居の前で「えびす通り」と交わる山手通りも歩道を含めた幅は10m強で、こちらも「えびす通り」と同じ人の波が現れる。

雑踏時の東京・銀座でもここまではないという人いきれで一帯は包まれる。これも関東一の賑わいぶりかも知れない。

いずれをとっても、条件付きの「関東一」でしかない。では「関東一の賑わい」は誇大宣伝なのか?

桐生にはえびす講がなければ生まれなかっただろう、という不思議な風習がある。「その4」で書上家が取引先などを招いて宴を張ったことは書いたが、同じようなことは桐生の機屋さんでは広く行われていた。

それだけでなく、この日は奉公人にも恩恵があった。長い勤務時間をこの日だけ「午後は早じまい」にした機屋さんは数多くあった。それに、江戸から明治にかけては、朝食と昼食のおかずは漬け物だけ、夜は煮豆と煮浸しが加わる程度の粗食しか出なかったが、この日は豪勢な食事が振る舞われ、酒が出た。そして、奉公人に小遣いを渡してえびす講に送り出す機屋さんも結構あったという。

いまは世界的なマフラーメーカーの松井ニット技研は、創業時は銘仙やお召しを織る機屋だった。

「ええ、祖父の代までえびす講の日は仕事を早めに終えて職人さんたちにお小遣いを渡していましたね。それが終わると,職人さんたちは嬉しそうにえびす講に出かけていました」

と語るのは、松井智司社長である。

桐生市役所の給料日は、毎月22日である。ところが、桐生えびす講がある11月だけは、19日に繰り上げて支給されていた。市内の企業が従業員に小遣いを支給しているのにあわせたのである。旧新里村、黒保根村と合併した翌年の2006年まで実施されていた特別措置だ。

それでなくても、

「えびす講になると財布の紐が緩む」

といわれる桐生だ。従業員に小遣いを渡し、給料日を前倒しするのは、みんなこぞって桐生えびす講をもっと盛り上げよう、2倍、3倍の賑わいを創り出そうという、町、市を挙げての、いまでいえば民間主導の住民運動であったのだ。

確かに、「関東一」の賑わいではなかったろう。だが、桐生人たちは「関東一の賑わい」を自分たちの手で生み出そうという心意気を持ち、工夫と努力を積み重ねていたのだと思う。その心意気は「関東一」ではないか?

いかがだろう。やや桐生贔屓が過ぎる解釈だろうか?

桐生えびす講 その7 関東一社(上)

ある経営書によると、自分の会社にある「No.1」を探すのは,経営計画の入り口である。製品の品質の高さなのか、最新鋭の生産設備と効率的な生産システムによる価格の安さか、それともデザイン力か。

満天下に

「我が社のこれはNo.1です」

と胸を張れるものがあるかどうか。

この経営書には確か、No.1が見つかるまで、どんどん分野を細かく区分けしなさい、とあった。ネジのメーカーなら、例えばネジ全部から、ステンレスネジに狭める。それでもNo.1でなければ、ステンレスの平ネジ、とさらに狭める。それでもダメなら、1.8cmのステンレスの平ネジ、と、どんどん小さな範囲に絞る。自社の製品の何かが「No.1」と呼べるまでこれを繰り返すのである。

筆者がとある音楽ホールの支配人をしたとき、この手法を採用したことがある。

就任したとき、ホールのキャッチコピーは、

「世界で9本の指に入る音楽ホール」

であった。前任者に根拠をただすと、アメリカの音響学者が世界中のおもだったホールを調査して出した結論だという。英語で書かれたその本を見ると、最優秀に3ホール、その次の優秀に6ホールが挙げられており、その6つのホールの一つに私が任されたホールがあった。確かに9本の指に入っている。だが、「No.1」ではない。

「優秀」の6つのホールを横並びと見れば、世界で4番目の音響を誇るホールともいえそうだが、「4番目」では何とも落ち着きが悪い。そこで一覧表を何度も眺めていてあることに気がついた。ほかの8つのホールはすべて1500人以上の収容力がある大ホールである。フルオーケストラが演奏できる。しかし、我が社のホールの収容力は552人。ステージも小さく、せいぜい30人の小編成オーケストラしか乗ることができない。

「これだ!」

と私は膝を叩いた。生まれたキャッチコピーは

「世界で最も響きが美しい室内楽専用ホール」

である。

私は「No.1」を見つけた。それからのホール経営の基盤にすえた上であれこれ手を打って、たった1年間でホールの赤字を1億2000万円ほど縮小できた。同じようなことは、数多くの成功企業で試みられているに違いない。

桐生西宮神社を作り、運営してきた人々にそんな経営学の知識があったかどうかは不明だが、ここも「No.1」を持つ。とはいえ、西宮神社本社から分霊勧請を受けてできた、いわば「支社」格の神社だから、「日本一」「世界一」は本社に譲らなければならない。そこで桐生西宮神社が選んだのは

「関東一社」

というキャッチコピーだった。冒頭の写真に見るように、「関東一社」を刻み込んだ石柱まで立て、桐生西宮神社は関東で唯一の西宮神社である、と満天下に宣言して今日まで続いてきた。

ちょっと待て、と首をひねられる方が多いかも知れない。群馬県内を見ても沼田市に沼田西宮神社があるし、隣の栃木県足利市には足利西宮神社がある。東京にも、えびす、大黒の姿を描いた御神影札(おみえふだ)を頒布している神社はある。それなのに、なぜ桐生西宮神社が「関東一社」なのか?

桐生えびす講 その8  関東一社(下)

繰り返しになるが、桐生西宮神社は明治34年、西宮神社に分霊を認めてもらってできた。西宮神社を名乗るところでこうした記録が残っているのは関東では桐生だけだ。

隣の足利西宮神社は慶長8年(1603年)、時の代官が寄付を募って摂津国西宮大神を作ったのが始まりとある。桐生より歴史ははるかに長いが、西宮神社本社との関係は明らかでない。関東にあるほかの西宮神社も同じような事情で、本社直系と名乗ることができるのは関東では桐生西宮神社だけなのだ。

では、本社直系だと何が違うのか?

西宮神社本社は寛文3年(1664年)、江戸幕府から「日本国中像札賦与御免(にほんこくちゅうぞうさつふごめん)」を受けた。いわば、西宮神社が配布する御神影札だけが「本物」であると認められたのである。江戸幕府を後ろ盾にした著作権が確立したといってもいい。

その後西宮神社本社は、この著作権を背景に、お札と御神影札を布教のキーグッズとして使ってきた。全国各地に、本社から免許状を受けた「願人(がんにん)」というお札を配る人を置いた。この願人たちが、信者の家を1軒ずつ歩き、本社で版木刷りしたお札と御神影札を届けた。願人たちに免許状を出したのは、当時、えびす、大黒を描いた札を勝手に配布する動きがあったためだ。著作権を持つ西宮神社本社は、願人が届けるものだけが「本物」であると説明することができたわけだ。

願人は信者たちから「初穂料」を受け取り、集めて本社に送る。全国から集まった初穂料が本社を経済的に支えたのはいうまでもない。

それだけでなく、信者が増えれば願人の手元に残るお金も増える。つまり、本社と願人は、いまでいうWIN-WINの関係で結ばれていた。

そして、わざわざ遠い西宮まで足を運ばなくても、毎年新しいお札や御神影札を手にすることができる信者たちにとっても、このシステムはありがたかった。ここまで含めれば、WIN-WIN-WINの関係となる。巧みなシステムが布教の大きな動力になったのである。

明治維新で江戸幕府は崩壊した。西宮神社の著作権も、だから失効した。

制度としては意味がなくなったが、心は残る。本社に分霊勧請を認められた桐生西宮神社は、本物のえびす様を求めたのである。著作権が失効したのなら、勝手にお札と御神影札を作って売っても、どこからも後ろ指を指されることはない。だが、桐生西宮神社が頒布するお札と御神影札は、本社でお祓いを済ませたものである。

2018年の桐生えびす講に献幣使として参列した吉井権宮司

桐生西宮神社のえびす講には、西宮神社からの献幣使が来る。いまその役を果たしているのは本社権宮司の吉井良英である。
吉井さんはいう。

「桐生西宮神社の特徴は、本社の神札を直々にお受け頂き、頒布されているというところで、関東地区におきましては唯一です。本社と一体的な運営に近い分社ということで関東一社いう表現になっている」

だから、わざわざ兵庫県西宮市まで足を運ばなくても、桐生で本社と全く同じお札、御神影札を手にすることができる。

高品質の絹織物が町を栄えさせた桐生である。原料から染色、織り方からデザインまで、先行商品のまがい物を作っていたのでは、西の西陣、東の桐生といわれるブランド力は身につかなかったに違いない。

「例え著作権はなくなっても、本物とそうでないものの違いは残るはずだ」

本物に敬意を払い、本物にこだわり抜く。桐生西宮神社と桐生えびす講には、織都の歴史を通して桐生人のDNAに刻み込まれた習性が埋め込まれているのである。

桐生えびす講 その9 主役は町衆

桐生西宮神社に定住の神主さんがいた記録はない。神社とえびす講をずっと維持・管理・運営してきたのは「世話人」と呼ばれる町衆である。神主さんがいたら、神事の執行はもちろん、華やかなえびす講の開催にも神主さんが東奔西走して準備を整えるのかも知れないが、桐生西宮神社は神事となると町衆がほかの神社から神主さんを招いて執り行う。

それほどだから、えびす講となると、すべて「世話人」の仕事である。事前にチラシを作って新聞に折り込み、市内に垂れ幕や横断幕を張り出す。開催中の交通規制や警らにあたる警察との打ち合わせ,人波の整理に当たるガードマンの手当、毎年400店から500店を出店してくれる街商組合との詰め、頒布するお札やお守り、おみくじの準備……。えびす講が始まれば早朝から神社に詰めっきりになり、1日目の夜は体力のある若手(あくまで「相対的な」若手だが)が社殿に泊まり込んで参拝者との応対に当たる。

「夜中の1時、2時には夜のお仕事の方たちが仕事を終えておいでになりますし、4時になると早朝の散歩がてらのお年寄りがみえる。初めて泊まり込んだ年は、ああ、桐生って眠らない町なんだなあって感動しました」

とは、ある若手世話人の話である。

「世話人」は歴代20人内外である。かつては桐生の旦那衆が務め、自分の子どもに世襲した。えびす講の間は本業を横に置く。機屋や商家を取り仕切る経営者、その後継者ばかりだったから自由がきいた。

しかし、時代の波は容赦なくえびす講にも押し寄せた。繊維製品の主要生産国がアジア諸国に移り、織物で栄えた桐生に衰退の色が濃くなった。廃業する機屋が増え、客足が減った商店はシャッターを降ろす。かつては事業と桐生西宮神社世話人の後継者になるはずだった世代は家業に見切りをつけ、サラリーマンになって多くは桐生を出た。

「だから、世話人の後継者を捜すのも大変です」

と語るのは、世話人の代表である岡部信一郎総務だ。長く世話人を務めてきた家でサラリーマンになった人は定年を待って誘う。東京などに出て桐生に戻ってこない人もいるから、世話人の家系ではない人にも人脈をたどってお願いし、世話人に加える。

世話人問題以上に過酷な時代の波は、人口減である。1975年には13万5000人を超えていた桐生市の人口は1989年に13万人を割り込み、2004年には11万3000人まで減った。新里村、黒保根村との合併で一時的に13万1000人に増えたがその後も人口減は続き、2018年2月現在で11万1000人強である。日本創成世会議が「消滅可能性都市」の一つに桐生市をあげ、2040年には7万3000人弱の都市になると指摘したことは記憶に新しい。

「関東一社」の桐生西宮神社だが、主要な参拝客はほとんどが市内の人である。人口減はえびす講の人出にも響かざるを得ない。

「まだ目に見えて減ってはいませんが、このまま行けば必ず減りますよね。人の雑踏が薄らげば露店も減ってしまって、ますます人を呼び寄せるえびす講の魅力が削がれかねない」

岡部総務は懸念を隠さない。何か手を打たねば、明治の先人たちから延々と受け継いできたえびす講に赤信号が灯ってしまうのだ。

人口減は大きな時代の流れが生み出したもので、自分たちの力では何ともできないとはいえ、今のままでえびす講を100年先の子孫たちに受け継ぐことができるのか? 悪くすると、いまの世話人世代が桐生えびす講に幕を下ろさねばならなくなるのではないか?

事は深刻なのだ。いまこそ、町衆の総力を挙げて桐生えびす講を守らねばならない。

桐生には、どん底に落ちたときに働く「逆バネ」があると書いた。果たして、その逆バネは桐生えびす講にも姿を現してくれるのだろうか?

桐生えびす講 その10 100年後を目指して

20世紀最後の年である2000年、桐生えびす講は100回目を迎えた。父の後を継いで世話人に就任した岡部さんはまだ総務ではなかったが、その頃から危機感を持っていた。

桐生えびす講を100年先の子孫たちに引き継ぐのが自分たちの仕事である。だが、今のままでは桐生の衰退とともに水没しかねない。100年前の先祖は桐生の繁栄を願って福の神=えびすの神を招いた。このままでは私たちが祖先の願いを断ち切ることになりかねない。

川の流れにじっと浮かぶアヒルは、しかし水面下では必死に流れに逆らって足を動かしている。時代という流れの中で生きる私たちも実は同じである。流れに押し流されないためには、必死で自分たちが動かなければならない。同じ場所にとどまるため、時代の流れに合わせて変化する。その努力を欠けば、いつかは流れに押し流されて消えてしまうのである。

第100回桐生えびす講はいい機会だった。岡部さんは動き始めた。

郷土史家で、群馬県文化財保護指導委員も務める平塚貞作さんを口説いて、「えびす だいこく 福の神」という小冊子を出版したのは第100回記念だった。えびす信仰、桐生西宮神社の由来、えびす講に伴う桐生の暮らし・習慣などをコンパクトにまとめた冊子は、格好の桐生えびす講入門書である。
あるいは、当時の世話人たちの

「桐生えびす講をなくさないぞ!」

という決意表明でもある。

2000年に手がけたのはそれだけではない。

桐生西宮神社のホームページ(http://www.kiryu-ebisu.jp/index.html)を開いた。

同じ境内にある美和神社の神楽殿を使って「福まき」を始めた。種銭(種をまけば芽が出る。このお金を使うとそこから芽が出て実り、たくさんのお金が戻る)、招福菓子、福鯛飴、地元商店のクーポン券を入れた袋を3000個用意し、若者が蒔く。毎回、数百人の善男善女が、いまや遅し、と待ち受ける人気イベントだ。

プロの神楽太鼓奏者・打楽器奏者の石坂亥士さんの「えびす太鼓」もこの年に始めた。たった一つの和太鼓が、ある時は軽妙に、次の瞬間には重々しく様々なリズムをたたき出し、神楽殿から境内に響き渡らせる。

 

 

それから7,8年たって、神楽殿前の広場に手を入れた。桜の木を切り、石灯籠を移設して整備したのは、地元の有力商店が軒を並べる「えびす横町」を生み出すためである。

 

 

桐生が誇るからくり人形師、佐藤貞巳さんのからくり人形小屋ができたのは2010年頃のことだ。からくり人形が本物の布を織る「白瀧姫」がデビューしたのは、この小屋だった。

2015年には、お神楽にあわせて白瀧姫がフラメンコを踊る「白滝の舞い」が登場した。オリジナルの舞踊を生み出したのは、地元のフラメンコダンサー、野村裕子さんである。冒頭の写真をご覧いただきたい。

そして2016年には桐生西宮神社の由来を易しく紹介したパンフレットを作った。お札を求めに来る参拝客に、もっと神社を、桐生の歴史を知ってもらおうという試みだ。同時に、「桐生えびす便り」を創刊した。毎年えびす講に合わせて発刊する年刊誌で、これも参拝客に配布する。

こうした動きに刺激されたのか、2015年からは神社近くの横山町の若衆たちが、独自に屋台を出し始めた。

「昔はうちの町内の近くまで出ていた屋台が、いつからかなくなった。えびす講が始まっても町内は暗いままで寂しい。だったら自分たちでやるか、と」

と語る新見直広さんは、

「いまは会社の経営で忙しいが、時間がとれるようになったらえびす講を支える一員になりたい」

という将来の世話人候補である。

いくら新しい試みをしてもすぐに時間の流れに埋没して「当たり前」になり、ひょっとしたら誰も

「変わったな」

とは気がついてくれないかも知れない。だが、流れの中で同じ場所にとどまるアヒルのように、これだけの努力が重なって初めて、えびす講は毎年変わぬ人の波を呼び寄せている。

しかし、これだけで人口減に対処できるのか?
岡部総務をはじめ、いまの世話人たちは

「これだけでは足りないだろう」

と口を揃える。

では、桐生えびす講をどう変えればいまの賑わいを維持し、さらに盛り上げることができるのか。

狙うのは、関東一円から参拝客を集めることである。毎年11月19,20日の桐生えびす講に、ある人はJRで、ある人は東武鉄道で、またマイカーでたくさんの人が押し寄せる。
岡部総務はいう。

「『関東一社』なんだから、不可能じゃないですよね」

2020年は東京オリンピックの年だ。その余熱が醒めない11月、桐生えびす講は第120回を迎える。絶好の機会である。それまでに新機軸を打ち出し、桐生えびす講を関東一円のお祭りにしたい。

世話人たちはいま、自分たちが引き受けざるを得ない大任を背負って歩き続けている。

この子たちに「桐生えびす講」を引き渡し、桐生の繁栄を取り戻してもらわねばならないのだから。