趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第14回 出るわ出るわ

まず、ボロボロになっていた簑(みの)から修復を始めた。手に持つと崩れ落ちそうに傷んでいた。修理では追いつかないと見ると、麻のロープを買ってきてほぐし、その繊維で簑を作って色を塗った。刀は鞘から出して錆びついた刀身を磨いた。着衣を取り去って、一部裂けていたところは美恵子さんが裏からかがって修理した。これは修復・復元なのだ。着衣が傷んでいるからといって新しく作った着物と取り替えるわけにはいかない。

切れていた操り糸は織機に使われるかつ糸と取り替え、伸びた輪ゴムの代わりにはパンツのゴム紐を使った。錆びていたネジをドライバーでネジ山が壊れないように慎重に緩めると、錆びているのは頭の部分だけで、中は空気にあまり触れていないためかピッカピカだった。錆びている頭の部分を磨いた。桐の木で作ってある本体や滑車は全く傷んでいない。

相手は文化財級の宝物である。佐藤さんは慎重の上にも慎重に修復作業を続けた。70年近い時を経て人形が元の姿を取り戻し、操り糸で動くようになるまで2ヶ月ほどかかった。

「できた!」

勢いに乗った佐藤さんは、残り6体も自宅に持ち帰った。コツコツと修復作業を進める。だが、からくり人形芝居は人形だけでは演じることができない。舞台がいる。

佐藤さんは舞台の背景になる幕を作り始めた。人形は身長が40cm近い。使うのは縦1.8m、横幅6mのテントシートである。これに曾我兄弟が父の敵を討つ舞台となる富士の裾野を描かねばならないのだが、長すぎて佐藤さん宅の部屋には広げることができない。

「狭い家だから仕方ないんでね。幕を部屋にぐるりと回して壁に貼り、下に新聞紙を置いてエナメルペイントで描いたんです。作業出来る場所も限られるから、ある部分を描き上げるとシートを回して次を描くなんて工夫をしました」

半年がかりで佐藤さん夫妻が修復し終わった「曾我兄弟」は、桐生市の有鄰館に展示した。

佐藤さんの強引な修復作業が進んでいたころ、市内では新しい動きが起きていた。

4丁目の蔵からからくり人形が見つかったことを知った他の町会が

「ひょっとしたらうちの町会にも」

と捜索を始めたのである。

そうしたら、出るわ出るわ。桐生天満宮から「巌流島」(昭和27年)の5体が見つかると、本町3丁目からは「助六由縁江戸櫻」(昭和27年)6体、本町1丁目からは「義士の討ち入り」(昭和3年、27年)11体など、本町4丁目の8体と合わせると48体ものからくり人形が姿を現したのである。

「1丁目の忠臣蔵の人形は茶箱に入っていたそうです。余りにもリアルな人形なので見つけた人が気持ち悪がり、お焚き上げで燃やしてしまおうとしていたとか。危ないところでした」

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第15回 レプリカ

そして、次々と見つかるからくり人形に市民の関心も高まり、「桐生からくり人形研究会」が旗揚げした。佐藤さんがその第1期会員になったのはいうまでもない。

せっかくの盛り上がりである。郷土の文化をみんなの手で守って行くにはもう一段の盛り上がりが欲しい。研究会はとある企業から助成金を受け、有鄰館で「曾我兄弟夜討ち」を復活上演することにした。昭和36年以来だから、実に37年ぶりである。

そして1998年、どこで聞きつけたのか、NHKの取材が入った。「小さな旅」という番組で全国放送するという。

こうなると市民の興奮はますます高まる。大工さん、プリント屋さん、元市職員、教師……、様々な人たちが研究会に加わった。

有鄰館での復活公演をほとんど一人でこなしたのは佐藤さんだった。清水時計店でからくり人形を作って動かし、曾我兄弟の修復も夫婦で完成させた。ほかの会員たちはからくり人形にはほとんど素人ばかりである。操れるのは佐藤さんを置いて、ない。

佐藤さんの仕事はそれだけではなかった。次々と見つかったからくり人形を修復する仕事も、佐藤さんにしかできない大切な作業である。修復作業は結局、2009年頃まで続く。佐藤さんは再び、からくり人形に頭の先までどっぷりと浸かってしまったのである。

佐藤さん夫妻が取り組む修復作業が進むと、修復ができたからくり人形をどうするかが研究会の課題に登ってきた。

せっかく37年ぶりに復活した桐生からくり人形である。この炎を絶やさないためには定期的に上演し、桐生にはからくり人形芝居がいまでも健在であることをたくさんの人にアピールしなければならない。

しかし、修復したからくり人形は文化財である。衣服のほつれているところはかがって修理したとはいえ、生地自体が劣化している。使い続ければ修理出来ないほどに破れてしまうのは目に見えている。人形自体もこのまま使えば、いずれは同じ運命をたどるだろう。最初に復活した「曾我兄弟夜討」は修復記念の意味も込めてからくり人形芝居を上演したが、文化財として大切に保存するには、二度と舞台に上げてはならない。

これは二律背反である。どうすればいいのか?

「レプリカを作ろう。上演にはレプリカを使えばよい」

そんな意見が飛び出し、皆が賛成した。レプリカとは、本物のそっくりさんである。レプリカだから、傷めばまたレプリカを作ればよい。

会員の一人が文化庁に助成金を申請した。文化庁から助成金が出ると分かると、仕事の分担が進んだ。舞台は大工さんが作る。衣装は織都桐生の和服製造者が名乗り出た。幕はプリント屋さんが受け持って、顔は人形師のあの人に……、と進んだが、操る糸に応じて様々に動くからくり人形本体を作るのは佐藤さんにしかできないことである。

修復作業の傍ら、佐藤さん夫妻はレプリカ造りまで背負い込むことになった。修復に10年もの長い時間がかかったのはそのためだ。

レプリカならそっくりさんになっていさえすればよい。からくりの機構はよりよく改造してもいいのである。佐藤さんの「からくり人形師」魂を刺激するには充分だった。佐藤さんは結局37体のレプリカ人形を作るのだが、

「どれもこれも、オリジナルを越えるからくり人形にしちゃえ!」

と心を決めた。そして、実際に作り上げてしまったのである。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第16回 レプリカ

最初に見つかった「曾我兄弟夜討ち」のハイライトは、曽我五郎、十郎の兄弟が富士の裾野を舞台に、親の敵工藤祐経(すけつね)を討つ場面である。佐藤さんは、ここを盛り上げようと考えた。

オリジナルのからくり人形では、2人の刃に討たれた工藤祐経はバッタリと倒れるだけである。が、これでは味気ない。なにしろ所領争いで五郎、十郎の父を闇討ちした卑劣な極悪人なのである。昔の東映時代劇映画では、悪いやつはいかにも悔しそうに身もだえしながら死んで行くではないか。

「だからね、斬られて一度倒れた工藤祐経がムックと起き上がり、苦しみながらもう一度倒れるように改造したんです。操り糸を1本増やすだけで簡単にできますから」

忠臣蔵にはいくつもの工夫を加えた。

第一場。吉良亭前に押し寄せた赤穂浪士は大石内蔵助の采配で吉良亭に押し入る。まず大高源吾が掛矢を振りかぶって門扉を打ち壊しにかかる。オリジナルの大高は掛矢を持った腕を上下するだけでやや迫力がない。

(佐藤流の大高源吾は背をグッとそらす)

佐藤流の大高源吾は掛矢を持ち上げると、グッと上体を反らす。全身の力を込めて門扉を破ろうとの構えだ。

続くのは寺坂吉右衛門である。持った縄梯子をハッと塀の上に投げ上げ、縄梯子はみごとに塀の上に引っかかって侵入口を作るのだが、これは佐藤さんのオリジナルである。

「元はなかったシーンですが、こちらの方が迫力があるでしょ?」

塀の屋根には雪が降り積もっている。元は綿でできた雪だった。その綿に縄梯子の先につけた鈎を引っかけようというのが佐藤さんの試みだった。

「だけど、綿じゃ滑っちゃって引っかかってくれないんです。それでいろいろ試して真綿にしてみたらみごとに引っかかってくれました」

屋敷内のハイライトは、清水一学と堀部安兵衛の一騎打ちである。邸内の池に架かった橋の上で2人は激しく斬り合う。

「最後は清水一学が斬られて死ぬんだけど、オリジナルではバタン、という感じで倒れちゃうのよ。それじゃあ余韻がないと思って、いかにも悔しそうにゆっくり倒れるように改良しました。スプリングを仕込んだんだけどね。同じ仕掛けは、巌流島で小次郎が武蔵に斬られるシーンにも流用しましたよ。一学も小次郎も斬られる方だけどヒーローでもあるわけでしょ。バタンと倒れてくれたら余韻がない」

(修復ができた「羽衣」の人形たち)

佐藤さんの改良の手が入った「五条橋(牛若丸)」「曾我兄弟夜討」「巌流島」「助六由縁江戸櫻」「義士討入り」「羽衣」のからくり人形レプリカ37体はいまも現役である。有鄰館での定期公演で活躍しているのは、レプリカたちである。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第17回 浅草

「桐生からくり人形研究会」はその後、「桐生からくり人形芝居保存会」と名前を変え、いまでも活動中である。会員数は約80人。毎月第一土曜日にからくり人形芝居館で定期上演するのは会員たちだ。

頼まれれば、出張上演もする。忠臣蔵などほとんどのからくり人形芝居は12畳もある広い舞台が必要なので、3畳ほどの移動用舞台を作った。広い舞台があって初めてからくり人形に物語を演じさせることができるが、狭い舞台では芝居のストーリーを構成出来ない。からくり人形の動きを楽しむ程度になってしまうが、持ち運ぶ利便性を考えて諦めた。

ところがいま、佐藤さんは保存会の会員ではない。研究会の第一期会員であり、桐生からくり人形芝居で使われる人形はすべて佐藤さんが作り出した。からくり人形を操らせても

「はい、私ほどうまく操れる人は、このあたりにはいませんよ」

と自負しているのに、何故か佐藤さんはいま、伝統の桐生からくり人形芝居の蚊帳の外にいる。

2010年のことだった。保存会が出張上演を引き受けることを知った東京・浅草から忠臣蔵をやって欲しいと頼まれた。桐生のからくり人形芝居は、元はといえば江戸の文化だ。21世紀の今になっても、何となく江戸の情緒を保っている浅草からの依頼である。

「ふるさと、花のお江戸に錦を飾る」

と思った人がいたかどうかは分からないが、保存会は喜んで引き受けた。そして、持っていくのは移動用、3畳の舞台だと決めた。

すべては、佐藤さんがいない場所で決められた。佐藤さんには報告も連絡もなかった。すべてが決まった後で知った佐藤さんはカチンと来た。

佐藤さんは激情家である。これだ、と思ったことには脇目もふらずにトコトンのめり込む。中途半端は許さない。だからこそ、佐藤流とでも呼びたくなる独自のからくり人形を数多く作ることができた。

だが、脇目も振らずにのめり込めば、しばしば視野が狭くなり、周りの人の話が耳に入らなくなる。

桐生からくり人形芝居保存会、とはいえ、佐藤さんを除けばからくり人形には素人も同然の人々の集まりである。桐生からくり人形芝居の復元に血道を上げるに至っていた佐藤さんには、そんな周りの人たちの言うこと、することがユルくて仕方がないものに写ったとしても、誰を責めるわけにもいかない。

「あんたら、そんなことで桐生からくり人形芝居を復元出来ると思っているのか!」

という一物を常に心に抱えるようになった佐藤さんは、研究会の中で衝突を繰り返した。いつしか敬遠されるようになり、孤立していったのは起きるべくして起きたことである。そんな流れの果てに起きたのが、佐藤さんがいない場で決まった浅草公演だった。

「知って、ムッとしましたよ」

と佐藤さんは当時を振り返る。

(これが12畳の大舞台で演じられる忠臣蔵)

「出張上演を引き受けたことは、まあいい。でもね、移動用の、3畳の舞台を持っていくっていうでしょ。私は頭に来ちゃってね。だから言ってやったんです。そんなものを持って行くのは桐生の恥だよ、って。江戸の文化をいまに受け継ぐなんて言うけど、移動用の舞台では、桐生のからくりはその程度かって馬鹿にされるからやめろって言ったんです。ねえ、浅草でやるんなら12畳の大舞台でやらなきゃ。あの大舞台だったら、どこにでも胸を張って出せるものなんですよ」

だが、一度決まったことが覆ることはなかった。

「だからね、そんなら勝手にやれ、俺は恥をかきたくないから辞める! て宣言して飛び出しちゃったんです。あとはあの人たちが勝手にやってるから、私は知りません」

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第18回 屋根が、飛んだ!

佐藤さんが修復した曾我兄弟、忠臣蔵などが大舞台で上演されたのはわずか3度だけである。

1回目は公共・国立科学博物館で2003年に開かれた江戸大博覧会だった。まだレプリカはできていなかったため、修復が終わっていた曾我兄弟の本物を持ち込み、1日だけ大舞台で上演した。上々の評判で、博物館からは

「1ヶ月間上演してくれないか」

と頼まれたが、平日は仕事をしなければならない佐藤さんたちにできるはずはない。丁寧にお断りした。

2度目は2004年、トヨタ自動車が名古屋市に作った産業技術記念館の10周年記念で出展を求められた。期間は2週間である。トヨタ自動車のルーツは豊田佐吉がおこした豊田自動織機製作所である。織都桐生とは何かと縁が深い。喜んで引き受けた。

(小次郎は悔しそうに倒れるのである)

すでに曾我兄弟に加えて忠臣蔵、巌流島も修復が終わっていた。レプリカも一部できつつあり、忠臣蔵ではオリジナルにはいなかった清水一学、堀部安兵衛も持ち込み、期間中の土曜、日曜の4日間、桐生から駆けつけてこの3つのからくり人形芝居を上演した。同時に、まだ修理が終わっていないからくり人形を館内に展示した。地元の東海テレビが生中継した。

「落語家の春風亭昇太が司会役でした。私たちがからくり人形を操り始めると、口をあんぐりと開けて見とれていましたねえ」

(グラフぐんまに掲載された忠臣蔵)

最後は2006年3月、本町1丁目での「忠臣蔵」の上演である。桐生天満宮の社殿保存修理が終わったのを記念して本町1丁目商進会が興行した。野外にしつらえた大舞台の前はたくさんの市民で身動きならないほどの盛況で、市長や市議会議長、商工会議所会頭も交じり、賑わいぶりは群馬県の広報誌「グラフぐんま」に大きな写真付きで掲載された。

 

 

(この舞台の屋根が、飛んだ)

「あの時ね、飛んじゃったんです、舞台の屋根が。野外でしょ、当日は風が強かったんですね。大丈夫かなあ、と思っていたら、天井から降ろした幕が風に煽られてはためき、次の瞬間に屋根がふわっと浮き上がって幕と一緒に飛んで行っちゃった」

突然のハプニングだった。

「思わず私は、舞台の人形を抱きかかえました。人形まで壊れちゃアウトだからね。お客さんは何だか呆然としているの。ひょっとしたら、『屋根まで飛ばすなんて、大がかりなからくりだなあ』なんて思っていたのかも知れませんね」

舞台を作った大工さんが、柱と屋根をかすがいで繋ぐのを忘れていたのが原因だと、後で分かった。あの時は肝を冷やしたが、今となっては懐かしい想い出である。

だが佐藤さんはいま、自分が作った人形たちに手を触れることができない。曾我五郎、十郎も矢頭右衛門七も宮本武蔵も助六も、佐藤さんが操ることはできないのである。