趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第11回 売り上げトップに

それから毎年、佐藤さんは夏祭りにからくりを作り続けた。

翌年は「アラフラ海の真珠採取」だった。この年、店の前の通りにはアーケードが出来ていた。その上に透き通ったブルーのビニールで舞台を作った。この舞台に上から水を流す。すると、まるで海の中のように見える。

「アーケードのおかげで水漏れを心配しなくてもよかったからね」

フラフープを骨格にしてアコヤ貝を作り、蝶番で繋いだ。このアコヤ貝はモーター仕掛けで開閉する。貝が口を開くと中に真珠があり、開いた瞬間に中に仕組まれた電球が点灯して光を放つ。それだけでは面白くないのでマネキン人形を手に入れ、下半身を人魚にした。ピアノ線で吊された人魚は身体も腕も上下左右に動くようにしてあるから、佐藤さんが操るとまるで海中を泳いでいるように見える。

「アーケードの上だから、店の前に来ても見えない。だから反対側の歩道に人だかりが出来ていたね」

(これが「金龍銀龍」だ!)

別の年には「金龍銀龍」を出した。体長2mはあろうかという2匹の龍が身体をくねらせながら絡み合う。龍は2つの自転車のリムに取り付けられており、リムは180°動くたびにモーターの回転を逆にするスイッチング回路で制御されて

金龍は雄、銀龍は牝で、銀龍は首にネックレスを巻いてオシャレをしている。ピンポン球で作った「真珠」の首飾りである。

清水時計店の店頭に張り紙を出した。

「銀龍が首に巻いているネックレスの玉の数はいくつでしょう?」

祭りの最終日、舞台に登った佐藤さんは銀龍からネックレスを取り外し、押しかけた観衆に向かってピンポン球を1個ずつ投げた。

「1,2,3……」

運動会の玉入れのように、みんなで玉の数を数えたのである。

「玉の個数を当てた人にはもちろん賞品を用意していました。それに、ピンポン球の中にはビール券を入れておいたんです。祭りだから、みんなが楽しまなくっちゃね」

いま桐生市の人に話を聞くと、

「七夕祭りが独立していたときは、各商店が競ってからくり人形を屋根の上に上げていてね。毎年違ったからくり人形が出て楽しかったよ」

という人が結構いる。だが、佐藤さんの記憶によると、からくり人形を出していたのは前にも後にも佐藤さんのいる清水時計店だけ。佐藤さんのからくりが連続して知事賞を受賞しても真似するところすらなかった。佐藤さんのからくり人形は市民たちの記憶を変えてしまうほどのインパクトを持っていたらしい。

からくり人形はとにかく目立った。一連のからくり人形を作っている佐藤さんの知名度も上がった。だからだろう。佐藤さんの営業成績も右肩上がりで、昭和53年には、清水時計店の売り上げは北関東でトップになった。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第12回 桐生のからくり人形

だがこの年、佐藤さんは清水時計店を辞める。宝石部部長に昇進していた佐藤さんは、この年入った税務調査につきっきりになった。それだけ宝石部門の売り上げが多く、その責任者が佐藤さんだったからだ。ところが、おかげで営業に出る時間が大幅に減ったため、それまで右肩上がりを続けていた売り上げが落ちた。

「それを社長が怒っちゃってね。『税務調査で営業に出る時間が取れなかったからだ』と説明しても、『それは言い訳だ』という。最期に、『俺のいうことを聞けないヤツは辞めろ!』って社長が言うもんだから、私は『そうか』って手を挙げちゃった。いうことを聞くも何も、向こうのいってることが無茶だからね。手を挙げて周りを見ると、誰も手を挙げていない。そんなわけで私だけ辞めちゃったんです」

理屈の通らない喧嘩はきっちり買ってやる。それが子分を取り仕切るガキ大将の心意気である。かつてのガキ大将、佐藤さんの中には、ガキ大将の健康な精神が生き続けていた。

仕事を辞めた佐藤さんは、それからしばらくプラモデル作りに熱中する。スーパーカーやトラックを組み立てては桐生厚生病院の小児病棟を訪れ、入院中の子供たちにプレゼントして励ました。
それにも飽きた半年後、佐藤さんは一匹狼の宝石商として仕事を再開した。そして、あれほど熱中したからくり人形作りを忘れた。長男が成長し、やがて佐藤さんはボーイスカウト活動にのめり込む。その熱は、長男がボーイスカウトを卒業しても冷めなかった。佐藤さんとからくり人形の間には、長い空白期間が生まれた。

第1回で少し触れたが、桐生にはからくり人形芝居が生き残っている。江戸初期、大阪に始まった竹田出雲の流れを汲むと言われ、残された記録では、明治27年(1894年)、桐生天満宮のご開帳で竹田縫之助作のからくり人形芝居が公演されたのが最も古い。竹田からくりは江戸でも人気を博していたが、文明開化の東京では廃れ、桐生が江戸の文化を引き継ぐことになった。

桐生のからくり人形を上演したのは天満宮だけではない。天満宮の鳥居前から始まる桐生の目抜き通り、本町商店街を構成する6つの町会に加え、本町通からかつての陣屋につながる横山町がからくり人形芝居で覇を競った。水車を動力源にした大がかりなからくりも出て町衆を楽しませた。

昭和36年まで6回の上演記録がある。これを見ると、演目をほぼ毎回変えるのが桐生流だ。
例えば昭和27年は

(五条大橋の牛若丸と弁慶)

「巌流島(宮本武蔵)」

「義士の討ち入り(廷内の場)」

五条橋(牛若丸)」

「助六揚屋の段」

「曽我の夜討」

(助六)

源氏物語(藤壺)」

「野崎村(お染久松)」

「鞍馬山(牛若丸)」

などで、昭和36年は

「羽衣」

「歌麿」

「大坂夏の陣(坂崎出羽守)」

(八百屋お七)

「ディズニーランド」

「曽我の夜討」

「八百屋お七」

「一本刀土俵入り」

といった具合だ。

この中の「曽我の夜討」はその前の昭和3年にも上演されており、同じ人形、演目が3回も続いたのは長い歴史の中でこれだけ。よほど人気があったらしい。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第13回 修復作業

だが、昭和36年のご開帳が済んでしばらくすると、日本の繊維産業は衰退期に入る。

「糸で縄を買った」

と言われた日米繊維交渉(1970年)が引き金を引いたと言われる。繊維の町・桐生はもろに影響を受けた。町から活気が失われ、天満宮のご開帳でからくり人形芝居を演じる経済力が各町内になくなった。最後となった昭和36年に使われたからくり人形は各町会の蔵などに仕舞い込まれたまま、やがて存在することすら町衆の記憶から消えた。

桐生市本町4丁目の町会の蔵から古いからくり人形が見つかったのは1997年のことである。調べてみると、昭和3年(1928年)に製作されて上演され、その後昭和27年(1952年)、昭和36年(1961年)に再演されたまま蔵に仕舞い込まれていた「曽我の夜討」に使われた8体だった。

(曾我兄弟)

町衆の社交の場として大正8年(1919年)に作られた桐生倶楽部に8体は持ち込まれ、しばらく展示された。話題はメデイアに乗って広がり、東京からも人形劇の専門家らが視察に来るほどだった。だがそれ以上の盛り上がりは見られず、やがてすぐ近くにあった市郷土資料展示ホールの倉庫に仕舞い込まれた。

8体が見つかったことに人並み以上の関心を持った市民の一人が佐藤さんだった。桐生倶楽部に展示されていたときは、遠くから

「へーっ。これが桐生のからくり人形か」

と見物しただけだが、郷土資料館の倉庫に放っておかれていると聞くと、すっかり忘れていたはずのからくり人形への関心がムクムクと起き上がったのである。

郷土資料展示ホールまで出かけ、倉庫から勝手に引き出して8体の人形を点検した。これはからくり人形である。からくり人形である以上、操れなければならないはずだが、取り出した人形は動かなかった。

「ありゃあ、これ、動かないわ」

そう思ったところから佐藤さんの探求心が動き出す。動くように作ってあるのに、なぜ動かないのか。

かなり傷んでいる衣装を脱がせ、人形の本体を調べた。操る糸が切れている。ゴムが伸び切っている。見たところ、ネジもすっかり錆びている。だが、膝や腕、首など可動部を手で動かすと動く。

「これ、修理出来るかも知れない」

そう思うと、もう佐藤さんは止まらない。清水時計店で毎年からくり人形を作っていた時代にワープしてしまったようなものだ。傷みが少ないように見えた2体を勝手に自宅に持ち帰ったのである。

当時佐藤さんは、宝石商と看板屋の二足のわらじを履いていた。仕事は結構忙しかった。それでもその日から、妻の美恵子さんを巻き込んでの修復作業が始まった。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第14回 出るわ出るわ

まず、ボロボロになっていた簑(みの)から修復を始めた。手に持つと崩れ落ちそうに傷んでいた。修理では追いつかないと見ると、麻のロープを買ってきてほぐし、その繊維で簑を作って色を塗った。刀は鞘から出して錆びついた刀身を磨いた。着衣を取り去って、一部裂けていたところは美恵子さんが裏からかがって修理した。これは修復・復元なのだ。着衣が傷んでいるからといって新しく作った着物と取り替えるわけにはいかない。

切れていた操り糸は織機に使われるかつ糸と取り替え、伸びた輪ゴムの代わりにはパンツのゴム紐を使った。錆びていたネジをドライバーでネジ山が壊れないように慎重に緩めると、錆びているのは頭の部分だけで、中は空気にあまり触れていないためかピッカピカだった。錆びている頭の部分を磨いた。桐の木で作ってある本体や滑車は全く傷んでいない。

相手は文化財級の宝物である。佐藤さんは慎重の上にも慎重に修復作業を続けた。70年近い時を経て人形が元の姿を取り戻し、操り糸で動くようになるまで2ヶ月ほどかかった。

「できた!」

勢いに乗った佐藤さんは、残り6体も自宅に持ち帰った。コツコツと修復作業を進める。だが、からくり人形芝居は人形だけでは演じることができない。舞台がいる。

佐藤さんは舞台の背景になる幕を作り始めた。人形は身長が40cm近い。使うのは縦1.8m、横幅6mのテントシートである。これに曾我兄弟が父の敵を討つ舞台となる富士の裾野を描かねばならないのだが、長すぎて佐藤さん宅の部屋には広げることができない。

「狭い家だから仕方ないんでね。幕を部屋にぐるりと回して壁に貼り、下に新聞紙を置いてエナメルペイントで描いたんです。作業出来る場所も限られるから、ある部分を描き上げるとシートを回して次を描くなんて工夫をしました」

半年がかりで佐藤さん夫妻が修復し終わった「曾我兄弟」は、桐生市の有鄰館に展示した。

佐藤さんの強引な修復作業が進んでいたころ、市内では新しい動きが起きていた。

4丁目の蔵からからくり人形が見つかったことを知った他の町会が

「ひょっとしたらうちの町会にも」

と捜索を始めたのである。

そうしたら、出るわ出るわ。桐生天満宮から「巌流島」(昭和27年)の5体が見つかると、本町3丁目からは「助六由縁江戸櫻」(昭和27年)6体、本町1丁目からは「義士の討ち入り」(昭和3年、27年)11体など、本町4丁目の8体と合わせると48体ものからくり人形が姿を現したのである。

「1丁目の忠臣蔵の人形は茶箱に入っていたそうです。余りにもリアルな人形なので見つけた人が気持ち悪がり、お焚き上げで燃やしてしまおうとしていたとか。危ないところでした」

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第15回 レプリカ

そして、次々と見つかるからくり人形に市民の関心も高まり、「桐生からくり人形研究会」が旗揚げした。佐藤さんがその第1期会員になったのはいうまでもない。

せっかくの盛り上がりである。郷土の文化をみんなの手で守って行くにはもう一段の盛り上がりが欲しい。研究会はとある企業から助成金を受け、有鄰館で「曾我兄弟夜討ち」を復活上演することにした。昭和36年以来だから、実に37年ぶりである。

そして1998年、どこで聞きつけたのか、NHKの取材が入った。「小さな旅」という番組で全国放送するという。

こうなると市民の興奮はますます高まる。大工さん、プリント屋さん、元市職員、教師……、様々な人たちが研究会に加わった。

有鄰館での復活公演をほとんど一人でこなしたのは佐藤さんだった。清水時計店でからくり人形を作って動かし、曾我兄弟の修復も夫婦で完成させた。ほかの会員たちはからくり人形にはほとんど素人ばかりである。操れるのは佐藤さんを置いて、ない。

佐藤さんの仕事はそれだけではなかった。次々と見つかったからくり人形を修復する仕事も、佐藤さんにしかできない大切な作業である。修復作業は結局、2009年頃まで続く。佐藤さんは再び、からくり人形に頭の先までどっぷりと浸かってしまったのである。

佐藤さん夫妻が取り組む修復作業が進むと、修復ができたからくり人形をどうするかが研究会の課題に登ってきた。

せっかく37年ぶりに復活した桐生からくり人形である。この炎を絶やさないためには定期的に上演し、桐生にはからくり人形芝居がいまでも健在であることをたくさんの人にアピールしなければならない。

しかし、修復したからくり人形は文化財である。衣服のほつれているところはかがって修理したとはいえ、生地自体が劣化している。使い続ければ修理出来ないほどに破れてしまうのは目に見えている。人形自体もこのまま使えば、いずれは同じ運命をたどるだろう。最初に復活した「曾我兄弟夜討」は修復記念の意味も込めてからくり人形芝居を上演したが、文化財として大切に保存するには、二度と舞台に上げてはならない。

これは二律背反である。どうすればいいのか?

「レプリカを作ろう。上演にはレプリカを使えばよい」

そんな意見が飛び出し、皆が賛成した。レプリカとは、本物のそっくりさんである。レプリカだから、傷めばまたレプリカを作ればよい。

会員の一人が文化庁に助成金を申請した。文化庁から助成金が出ると分かると、仕事の分担が進んだ。舞台は大工さんが作る。衣装は織都桐生の和服製造者が名乗り出た。幕はプリント屋さんが受け持って、顔は人形師のあの人に……、と進んだが、操る糸に応じて様々に動くからくり人形本体を作るのは佐藤さんにしかできないことである。

修復作業の傍ら、佐藤さん夫妻はレプリカ造りまで背負い込むことになった。修復に10年もの長い時間がかかったのはそのためだ。

レプリカならそっくりさんになっていさえすればよい。からくりの機構はよりよく改造してもいいのである。佐藤さんの「からくり人形師」魂を刺激するには充分だった。佐藤さんは結局37体のレプリカ人形を作るのだが、

「どれもこれも、オリジナルを越えるからくり人形にしちゃえ!」

と心を決めた。そして、実際に作り上げてしまったのである。