趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第19回 えびす講

からくり人形芝居保存会からは離れたが、再び火がついた佐藤さんのからくり人形熱は冷める暇がなかった。桐生西宮神社から仕事の依頼が来るようになったのである。

兵庫県の西宮神社本社から御分霊を受けて桐生西宮神社ができたのは明治34年(1901年)のことだ。その3年前、当時桐生市の経済の中心だった本町3丁目で大火があり、63戸が全焼した。損害額は膨大だったろうが、桐生の町衆はその災難にめげることなく、

「災いを転じて福となす」

とばかりに、桐生で信仰する人の多かったえびす様を招こうと立ち上がり、すべて町衆の金で神社を設立したのである。本社から御分霊を受けてできた西宮神社は関東ではここだけで、「関東一社」と言われる。

同時に、西宮神社を招いた町衆たちがえびす講を始めた。桐生西宮神社の例祭であると同時に、桐生に冬の訪れを告げる風物詩、市民の楽しみの場としていまに受け継がれている。町衆が主宰する、全国にもほとんど例がないえびす講で、毎年11月19日、20日には20万人を超す人々が参拝に押しかけ、「関東一のみ賑わい」を見せる。

「その桐生えびす講のためにからくり人形を作って欲しい」

えびす講開催日に境内で演じるからくり人形が欲しいというのである。

翌年から、佐藤さんのからくり人形がえびす講に花を添えるようになった。釣り上げた鯛を小脇に挟み、自慢そうに周りも見回すえびす様は、いまでも毎回、階段を上り詰めた社殿の近くで愛嬌を振りまいている。

舞台に登場したえびす様もいる。一つは、船に乗ってこぎ出し、見事に鯛を釣り上げるえびす様だった。次は、境内にやって来て押し合いへし合いする善男善女に向かってお宝をまくえびす様である。

「えーっさ、えーっさ、えっさほいさっさ」

のかけ声に乗ってお猿の篭屋も登場した。はちまきをしたお猿さん2匹がえびす様の乗った籠を担ぎ、舞台中央まで進むと、えびす様が籠の中で立ち上がり、見物客に驚きと笑いをふりまく。

本当に機を織る白瀧姫も、こうした毎年の積み重ねがあって生まれた。

そして2018年のえびす講には、源頼朝が登場した。もとはこの年8月の桐生祇園祭用に、本町3丁目町会に頼まれて作ったものだ。本町3丁目には文久2年(1862年)に作られた全高7.5mの鉾が受け継がれ、祇園祭になると偉容を現す。鉾の上には能面をつけた源頼朝がすっくと立つ。

佐藤さんはこの頼朝を小さくし、動くようにした。

   

しずしずと舞台に現れた頼朝は能面をかぶり、能の舞いを始める。左腕をスッと上げて顔を隠す。腕を降ろすと能面が消え去っており、素顔の頼朝が現れる。次の同じ動作の後は、能面の頼朝になっている、という仕掛けだ。桐生祇園祭で初めて公開した頼朝を、えびす講の芝居小屋で演じてみせたのである。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第20回 弓曳童子

佐藤さんのからくり人形創作に強い関心を持ち、曾我兄弟のからくり人形が見つかった1997年からずっと取材を続けてきたロボット学者がいる。桐生市出身で筑波大学名誉教授の松島皓三さんだ。ただ取材するだけでなく、佐藤さんの頭の中にしかないからくり人形の図面を起こし、それをもとに人形の動きを機械工学的に数値分析して説明する作業を続けてきた。松島さんの努力は5冊の冊子にまとめられている。

その5冊目のタイトルは「戻橋」である。

「戻橋」は歌舞伎舞踊で、本題を「戻橋恋の角文字(つのもじ)」という。渡辺綱が夜の一条戻橋で美女と道連れになったが、その美女は実は鬼女の化身で、見破った綱が名刀「髭切り」を一閃、片腕を切り落とす、という物語である。

2015年始め、桐生市の松島さんの実家から2体のからくり人形が見つかった。調べると、大正5年(1916年)の桐生天満宮のご開帳の際、本町5丁目が上演した「戻橋」に使われた人形だった。何らかの経緯で松島さんの父が入手、保存していたものらしい。

「佐藤さん、我が家からこんなものが見つかった。修復してくれませんか」

長年の知己である松島さんの依頼を佐藤さんが断るわけはない。

このからくり人形芝居は次のように進む。

舞台にはすでに見抜かれて元の姿に戻った鬼女と抜刀した右手を下げた渡辺綱が立つ。綱は左手で鬼女の右腕を掴んでおり、次の瞬間に右手を振り上げると悪鬼の右腕を切り落とす。悪鬼は飛び上がって逃げようとし、綱は切り取った鬼女の腕をさらしながら見得を切る。飛び上がった悪鬼は口を大きく開けて綱をにらみつけ、髪の毛を逆立てて怒りをあらわにする。

以上は修復なった「戻橋」である。

(調整中の佐藤さん)
(鬼女が髪を逆立てる)

松島さんがまとめた冊子によると、

「(オリジナルは)単に綱は太刀の上げ下ろし、鬼女は、口の開け閉め位の仕草であったろう」

つまり、見得を切ったり、髪の毛を逆立てたりというのは佐藤さんの「改造」が生み出した仕草である。

で、佐藤さん、これからどんなからくり人形を作ってみたいですか? と聞いてみた。私が聞かなくても、佐藤さんは必ずからくり人形を作り続ける。佐藤さんのひらめきからどんなからくり人形が生まれるのかが知りたかった。

「うん、私流の『弓曳童子(ゆみひきどうじ)』を作ってみたいんだよね」

「弓曳童子」とは、江戸からくりの最高峰の一つに数えられるからくり人形である。台座の上に乗った人形が、横に置かれた矢台から次々に4本の矢を取り、弓につがえて放つ。ギヤやカムを使った精巧なからくりだ。

佐藤さんの挑戦は、江戸から伝わるもののそっくりさんを作ることではない。必ず一工夫、二工夫を加えてオリジナルを越えたものを作ってしまう。

「ええ、私がこれまで見た弓曳童子は、弓に矢をつがえて引き絞るときに、弓の方を倒すんですよ。弓の上の方が人形から離れ、下の方が近付く。それで矢を飛ばすんだけど、あれ、不自然だよね。だって、本当に弓を曳くときは、右手で弦と矢を耳のあたりまで曳くでしょう。第一、弓の方をあんなに傾けたんじゃ、矢は的に当たらないわね」

ほう、それではどんな弓曳童子ができる?

「人形を少し大きめに、そう、身長80cm位にして、右手で曳くんです。それに、いまある『弓曳童子』は人形の下にある台座が、人魚と同じぐらいの高さがあって、いかにも複雑でしょう、といわんばかりにメカニズムを見せている。あんなもの、いらないんじゃないかなあ。もっと簡単な仕組みできると思ってるんですけどね」

2019年現在、佐藤さんは74歳。昭和58年(1983年)に心臓を患い、依頼ペースメーカーに頼って命を繋いでいる。

「だからね、私は生かされているんです。せっかく生かされているんなら、面白いことをやらなきゃね」

仕組みは簡単ながら、右手で弓を曳き絞る弓曳童子。一日も早く見てみたいと思うのは筆者だけではないはずである。

カフェラルゴ 第1回 真逆のカフェ

いつまでも人に使われるなんてまっぴらだ。サラリーマン、宮仕えは願い下げにする。必ず起業する。独立して経営者になるぞ……。

雇用の形が大きく変わり始め、正社員という安定した地位に就くのが狭き門になった時代に私たちはいる。いや、一部上場の大手企業の正社員になれたところで、会社がいつまで生き残るのか、一寸先は闇のような時代ともいえる。だから、同じような夢を抱く若者は数多いだろう。

高久保渉さん(1983年9月生まれ)、綾子さん(1986年1月生まれ)夫婦が「カフェラルゴ」を開いたのは長男貴弦(きいと)くんが間もなく3歳になろうという2015年8月のことだった。子育てに何かと手がかかる時期である。お金がますます必要になるのもこの時期からだ。それでも2人の決意は変わらなかった。渉さんは勤めていた鉄鋼会社をスッパリと辞め、独立の道を選んだ。

 

無謀である、と筆者は思う。店がうまく行かなかったらどうやって子どもを育てていくつもりだ? と説教の一つもしたくなる。多分、それが大人の常識である。

それだけでも無謀なのに、2人が立てた事業計画は、さらに無謀だった。客層を妊娠中のママ予備軍、子育て中の若いママたちに絞り込もうというのだ。しかも、

「ゆったりと、出来るだけ長居をしてください」

という店にするというのである。

そして、妊娠中、子育て中のママたちには、健康な食べ物は欠かせない。食材は自然のものしか使わない。

カフェの原価率はおおむね3割といわれる。ずいぶん低いように思われるが、売るものはコーヒー、ランチなど値がはらないものばかりだ。300円のコーヒーを1杯売って利益は210円、1000円のランチなら700円でしかない。微々たるものである。いや、店の経営には材料費だけでなく、店の内装などにかかった開業費を償還しなければならないし、家賃、水道・光熱費なども毎月必要になる。それを割り振れば、コーヒー1杯、ランチ1食の利益はもっと下がる。

だから、カフェの経営を始めようとする時の常識は、どれだけ幅広く客を集め、集まった客の回転率をどう上げるかである。10人の客がコーヒー1杯で4時間粘ったら、粗利益は2100円にすぎない。30分で客が入れ替わればその8倍だから16800円。客層の広さと回転率の高さは、カフェ経営の生命線なのだ。

もっと利益率を上げようと材料費に手をつける店だってあるだろう。国産の肉は高いから輸入肉に代える。昆布と鰹節で出しを取る手間と費用を省き、化学調味料を使う。業務用に売られているだしやルーを使って仕込みの手間と人件費を省く。企業経営の手法の一つがコスト削減なら、カフェ経営だって例外ではない。

どれをとっても、2人が進んだ道は、カフェ経営の常識の真逆だった。

カフェラルゴ 第2回 夢

桐生第一高校調理科を卒業した渉さんは中学時代から仲間とバンドを組むギター少年だった。高校時代にはJR 桐生駅前で友人と2人、アコースティックギターをひっさげて路上ライブを始め、卒業後は音楽活動にのめり込んだ。CDも出し、高崎市や太田市のFM局で番組を持つようになったのは2006年のことである。

だが、音楽でメジャーデビューを果たすのは限りなく狭い道だ。地元の鉄鋼会社に勤めながら土日の音楽活動を続けていた渉さんはなかなか大通りが見えてこないことに焦れたのか、いつしか、

「いずれは経営者になりたい」

という願いを持つようになっていた。

綾子さんは札幌で生まれた。5歳からピアノを始め、札幌大谷大学音楽学部音楽学科4年の時、ナベプロのオーディションに合格。東京で開かれた本選にも通り、卒業を待って上京、シンガーソング・ライターを目指した。

音楽が2人を繋いだ。初めて会ったのは2008年、東京のライブ会場だった。すれ違っただけだったが、2年後には付き合いを始め、急速に惹かれあってそれから半年もたたないうちに婚約した。

「桐生でも音楽活動は続けられるから」

という渉さんの「口説き」文句が決め手となって同棲を始め、翌年7月に結婚した。そして間もなく、最初の子を身ごもった。2人は心がふるえるほど嬉しかった。生まれてくる子を立派に育てなくっちゃ!

初めての、友達もいない桐生での妊娠は相談相手もなく、不安の固まりだった。予定日の2ヶ月前に札幌の実家に戻って落ち着き、2012年12月に長男貴弦くんを産んだ。体重3400グラムの元気な子だった。

出産が終われば次は子育てである。母にたくさんのアドバイスをもらい、生後1ヶ月の貴弦くんを抱いて桐生に戻ったのは年明けである。あれほど母に教えてもらったのだ。あとは自力で育てられるはず。

「私に育てられるかな?」

という妊娠初期に襲われた不安からは解放されたはずだった。

カフェラルゴ 第3回 実験店

頭から否定しながら、でも渉さんの提案は、綾子さんの脳裏にこびりついていた。

安定した暮らしを優先してとんでもないと言い切った。でも考えてみれば、そんなカフェがあって、同じような悩みを抱えるたくさんのママ、ママ予備軍と情報交換したり、悩みを打ち明けあったりしていたら、あのころの私はきっと救われただろうな。いつかはそんなカフェを開いてみたいな。でも、いまは無理!

貴弦くんが生まれ、子育てに悪戦苦闘し始めたからだろうか、時折そんな思いが脳裏に浮かぶ。
だからだろう。綾子さんは折に触れて

「ホントは主人と二人で、マタニティカフェをやってみたいんですけどね。でも、お金もないし、貴弦も小さいし、いまは無理なんです」

といろいろな人に話すようになっていた。
そんなある日のことである。

「だったら、やってみたらどうなの?」

突然、綾子さんのお尻を押す人が現れた。

「きっと、たくさんのママたちがそんなお店を待っているわよ。おやりなさいな。せめて試験的に開店してみたら? いまは無理だって諦めるのはそれからだって遅くはないでしょう。あのね、その実験に使えそうな場所に心当たりがあるの。しばらく待っててくれる?」

思いもよらない話だった。話をしてくれたのは、電車で隣に座ったから雑談を始めた初対面の婦人である。帰宅した綾子さんは渉さんに話したが、どう考えていいか分からない。とりあえず、2人であてにせずに待つことにした。

あてにしなかった婦人から、電話が来た。

「大丈夫だって。もとは託児所に使っていたところが空いてるのよ。しばらく使っていいんだって。どう、やってみない? やってみなさいよ!」

話を聞くと、水道・光熱費だけは負担しなければならないが、家賃はただ。しかも、東武線新桐生駅の近くである。立地もいい。

2人は考えた。自分たちが描いているマタニティカフェが受け入れられるのかどうかが実験できる。渡りに船の話である。とりあえず渉さんの仕事が休みの土日だけ開いてみて、客が来なければ止めてもとの暮らしに戻ればいいのではないか? 土日だけだから、イベントを中心にした展開をしてみようか。客に出すのは飲み物だけ。イベントへの参加費を取って……。

2人で相談を始めると、あれほど迷っていたのが嘘だったかのようにアイデアがあふれ出した。もう、2人の頭には前に進むことしかなかった。若さとは素晴らしいものである。

下見に行くと、もと託児所はアパートのような建物の2階だった。看板を出すスペースはない。これで客が来てくれるのかどうか。しかし、やってみるしかない。店名を「ベイビーズ & マタニティカフェ ラルゴ」とした。

2人でfacebookを始めた。店を多くの人に知ってもらうためである。地元紙が取材に来て記事を掲載してくれた。お金がない2人に出来る店の宣伝はそれだけだった。これでどれだけの人が来てくれるだろう?