趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第16回 レプリカ

最初に見つかった「曾我兄弟夜討ち」のハイライトは、曽我五郎、十郎の兄弟が富士の裾野を舞台に、親の敵工藤祐経(すけつね)を討つ場面である。佐藤さんは、ここを盛り上げようと考えた。

オリジナルのからくり人形では、2人の刃に討たれた工藤祐経はバッタリと倒れるだけである。が、これでは味気ない。なにしろ所領争いで五郎、十郎の父を闇討ちした卑劣な極悪人なのである。昔の東映時代劇映画では、悪いやつはいかにも悔しそうに身もだえしながら死んで行くではないか。

「だからね、斬られて一度倒れた工藤祐経がムックと起き上がり、苦しみながらもう一度倒れるように改造したんです。操り糸を1本増やすだけで簡単にできますから」

忠臣蔵にはいくつもの工夫を加えた。

第一場。吉良亭前に押し寄せた赤穂浪士は大石内蔵助の采配で吉良亭に押し入る。まず大高源吾が掛矢を振りかぶって門扉を打ち壊しにかかる。オリジナルの大高は掛矢を持った腕を上下するだけでやや迫力がない。

(佐藤流の大高源吾は背をグッとそらす)

佐藤流の大高源吾は掛矢を持ち上げると、グッと上体を反らす。全身の力を込めて門扉を破ろうとの構えだ。

続くのは寺坂吉右衛門である。持った縄梯子をハッと塀の上に投げ上げ、縄梯子はみごとに塀の上に引っかかって侵入口を作るのだが、これは佐藤さんのオリジナルである。

「元はなかったシーンですが、こちらの方が迫力があるでしょ?」

塀の屋根には雪が降り積もっている。元は綿でできた雪だった。その綿に縄梯子の先につけた鈎を引っかけようというのが佐藤さんの試みだった。

「だけど、綿じゃ滑っちゃって引っかかってくれないんです。それでいろいろ試して真綿にしてみたらみごとに引っかかってくれました」

屋敷内のハイライトは、清水一学と堀部安兵衛の一騎打ちである。邸内の池に架かった橋の上で2人は激しく斬り合う。

「最後は清水一学が斬られて死ぬんだけど、オリジナルではバタン、という感じで倒れちゃうのよ。それじゃあ余韻がないと思って、いかにも悔しそうにゆっくり倒れるように改良しました。スプリングを仕込んだんだけどね。同じ仕掛けは、巌流島で小次郎が武蔵に斬られるシーンにも流用しましたよ。一学も小次郎も斬られる方だけどヒーローでもあるわけでしょ。バタンと倒れてくれたら余韻がない」

(修復ができた「羽衣」の人形たち)

佐藤さんの改良の手が入った「五条橋(牛若丸)」「曾我兄弟夜討」「巌流島」「助六由縁江戸櫻」「義士討入り」「羽衣」のからくり人形レプリカ37体はいまも現役である。有鄰館での定期公演で活躍しているのは、レプリカたちである。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第17回 浅草

「桐生からくり人形研究会」はその後、「桐生からくり人形芝居保存会」と名前を変え、いまでも活動中である。会員数は約80人。毎月第一土曜日にからくり人形芝居館で定期上演するのは会員たちだ。

頼まれれば、出張上演もする。忠臣蔵などほとんどのからくり人形芝居は12畳もある広い舞台が必要なので、3畳ほどの移動用舞台を作った。広い舞台があって初めてからくり人形に物語を演じさせることができるが、狭い舞台では芝居のストーリーを構成出来ない。からくり人形の動きを楽しむ程度になってしまうが、持ち運ぶ利便性を考えて諦めた。

ところがいま、佐藤さんは保存会の会員ではない。研究会の第一期会員であり、桐生からくり人形芝居で使われる人形はすべて佐藤さんが作り出した。からくり人形を操らせても

「はい、私ほどうまく操れる人は、このあたりにはいませんよ」

と自負しているのに、何故か佐藤さんはいま、伝統の桐生からくり人形芝居の蚊帳の外にいる。

2010年のことだった。保存会が出張上演を引き受けることを知った東京・浅草から忠臣蔵をやって欲しいと頼まれた。桐生のからくり人形芝居は、元はといえば江戸の文化だ。21世紀の今になっても、何となく江戸の情緒を保っている浅草からの依頼である。

「ふるさと、花のお江戸に錦を飾る」

と思った人がいたかどうかは分からないが、保存会は喜んで引き受けた。そして、持っていくのは移動用、3畳の舞台だと決めた。

すべては、佐藤さんがいない場所で決められた。佐藤さんには報告も連絡もなかった。すべてが決まった後で知った佐藤さんはカチンと来た。

佐藤さんは激情家である。これだ、と思ったことには脇目もふらずにトコトンのめり込む。中途半端は許さない。だからこそ、佐藤流とでも呼びたくなる独自のからくり人形を数多く作ることができた。

だが、脇目も振らずにのめり込めば、しばしば視野が狭くなり、周りの人の話が耳に入らなくなる。

桐生からくり人形芝居保存会、とはいえ、佐藤さんを除けばからくり人形には素人も同然の人々の集まりである。桐生からくり人形芝居の復元に血道を上げるに至っていた佐藤さんには、そんな周りの人たちの言うこと、することがユルくて仕方がないものに写ったとしても、誰を責めるわけにもいかない。

「あんたら、そんなことで桐生からくり人形芝居を復元出来ると思っているのか!」

という一物を常に心に抱えるようになった佐藤さんは、研究会の中で衝突を繰り返した。いつしか敬遠されるようになり、孤立していったのは起きるべくして起きたことである。そんな流れの果てに起きたのが、佐藤さんがいない場で決まった浅草公演だった。

「知って、ムッとしましたよ」

と佐藤さんは当時を振り返る。

(これが12畳の大舞台で演じられる忠臣蔵)

「出張上演を引き受けたことは、まあいい。でもね、移動用の、3畳の舞台を持っていくっていうでしょ。私は頭に来ちゃってね。だから言ってやったんです。そんなものを持って行くのは桐生の恥だよ、って。江戸の文化をいまに受け継ぐなんて言うけど、移動用の舞台では、桐生のからくりはその程度かって馬鹿にされるからやめろって言ったんです。ねえ、浅草でやるんなら12畳の大舞台でやらなきゃ。あの大舞台だったら、どこにでも胸を張って出せるものなんですよ」

だが、一度決まったことが覆ることはなかった。

「だからね、そんなら勝手にやれ、俺は恥をかきたくないから辞める! て宣言して飛び出しちゃったんです。あとはあの人たちが勝手にやってるから、私は知りません」

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第18回 屋根が、飛んだ!

佐藤さんが修復した曾我兄弟、忠臣蔵などが大舞台で上演されたのはわずか3度だけである。

1回目は公共・国立科学博物館で2003年に開かれた江戸大博覧会だった。まだレプリカはできていなかったため、修復が終わっていた曾我兄弟の本物を持ち込み、1日だけ大舞台で上演した。上々の評判で、博物館からは

「1ヶ月間上演してくれないか」

と頼まれたが、平日は仕事をしなければならない佐藤さんたちにできるはずはない。丁寧にお断りした。

2度目は2004年、トヨタ自動車が名古屋市に作った産業技術記念館の10周年記念で出展を求められた。期間は2週間である。トヨタ自動車のルーツは豊田佐吉がおこした豊田自動織機製作所である。織都桐生とは何かと縁が深い。喜んで引き受けた。

(小次郎は悔しそうに倒れるのである)

すでに曾我兄弟に加えて忠臣蔵、巌流島も修復が終わっていた。レプリカも一部できつつあり、忠臣蔵ではオリジナルにはいなかった清水一学、堀部安兵衛も持ち込み、期間中の土曜、日曜の4日間、桐生から駆けつけてこの3つのからくり人形芝居を上演した。同時に、まだ修理が終わっていないからくり人形を館内に展示した。地元の東海テレビが生中継した。

「落語家の春風亭昇太が司会役でした。私たちがからくり人形を操り始めると、口をあんぐりと開けて見とれていましたねえ」

(グラフぐんまに掲載された忠臣蔵)

最後は2006年3月、本町1丁目での「忠臣蔵」の上演である。桐生天満宮の社殿保存修理が終わったのを記念して本町1丁目商進会が興行した。野外にしつらえた大舞台の前はたくさんの市民で身動きならないほどの盛況で、市長や市議会議長、商工会議所会頭も交じり、賑わいぶりは群馬県の広報誌「グラフぐんま」に大きな写真付きで掲載された。

 

 

(この舞台の屋根が、飛んだ)

「あの時ね、飛んじゃったんです、舞台の屋根が。野外でしょ、当日は風が強かったんですね。大丈夫かなあ、と思っていたら、天井から降ろした幕が風に煽られてはためき、次の瞬間に屋根がふわっと浮き上がって幕と一緒に飛んで行っちゃった」

突然のハプニングだった。

「思わず私は、舞台の人形を抱きかかえました。人形まで壊れちゃアウトだからね。お客さんは何だか呆然としているの。ひょっとしたら、『屋根まで飛ばすなんて、大がかりなからくりだなあ』なんて思っていたのかも知れませんね」

舞台を作った大工さんが、柱と屋根をかすがいで繋ぐのを忘れていたのが原因だと、後で分かった。あの時は肝を冷やしたが、今となっては懐かしい想い出である。

だが佐藤さんはいま、自分が作った人形たちに手を触れることができない。曾我五郎、十郎も矢頭右衛門七も宮本武蔵も助六も、佐藤さんが操ることはできないのである。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第19回 えびす講

からくり人形芝居保存会からは離れたが、再び火がついた佐藤さんのからくり人形熱は冷める暇がなかった。桐生西宮神社から仕事の依頼が来るようになったのである。

兵庫県の西宮神社本社から御分霊を受けて桐生西宮神社ができたのは明治34年(1901年)のことだ。その3年前、当時桐生市の経済の中心だった本町3丁目で大火があり、63戸が全焼した。損害額は膨大だったろうが、桐生の町衆はその災難にめげることなく、

「災いを転じて福となす」

とばかりに、桐生で信仰する人の多かったえびす様を招こうと立ち上がり、すべて町衆の金で神社を設立したのである。本社から御分霊を受けてできた西宮神社は関東ではここだけで、「関東一社」と言われる。

同時に、西宮神社を招いた町衆たちがえびす講を始めた。桐生西宮神社の例祭であると同時に、桐生に冬の訪れを告げる風物詩、市民の楽しみの場としていまに受け継がれている。町衆が主宰する、全国にもほとんど例がないえびす講で、毎年11月19日、20日には20万人を超す人々が参拝に押しかけ、「関東一のみ賑わい」を見せる。

「その桐生えびす講のためにからくり人形を作って欲しい」

えびす講開催日に境内で演じるからくり人形が欲しいというのである。

翌年から、佐藤さんのからくり人形がえびす講に花を添えるようになった。釣り上げた鯛を小脇に挟み、自慢そうに周りも見回すえびす様は、いまでも毎回、階段を上り詰めた社殿の近くで愛嬌を振りまいている。

舞台に登場したえびす様もいる。一つは、船に乗ってこぎ出し、見事に鯛を釣り上げるえびす様だった。次は、境内にやって来て押し合いへし合いする善男善女に向かってお宝をまくえびす様である。

「えーっさ、えーっさ、えっさほいさっさ」

のかけ声に乗ってお猿の篭屋も登場した。はちまきをしたお猿さん2匹がえびす様の乗った籠を担ぎ、舞台中央まで進むと、えびす様が籠の中で立ち上がり、見物客に驚きと笑いをふりまく。

本当に機を織る白瀧姫も、こうした毎年の積み重ねがあって生まれた。

そして2018年のえびす講には、源頼朝が登場した。もとはこの年8月の桐生祇園祭用に、本町3丁目町会に頼まれて作ったものだ。本町3丁目には文久2年(1862年)に作られた全高7.5mの鉾が受け継がれ、祇園祭になると偉容を現す。鉾の上には能面をつけた源頼朝がすっくと立つ。

佐藤さんはこの頼朝を小さくし、動くようにした。

   

しずしずと舞台に現れた頼朝は能面をかぶり、能の舞いを始める。左腕をスッと上げて顔を隠す。腕を降ろすと能面が消え去っており、素顔の頼朝が現れる。次の同じ動作の後は、能面の頼朝になっている、という仕掛けだ。桐生祇園祭で初めて公開した頼朝を、えびす講の芝居小屋で演じてみせたのである。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第20回 弓曳童子

佐藤さんのからくり人形創作に強い関心を持ち、曾我兄弟のからくり人形が見つかった1997年からずっと取材を続けてきたロボット学者がいる。桐生市出身で筑波大学名誉教授の松島皓三さんだ。ただ取材するだけでなく、佐藤さんの頭の中にしかないからくり人形の図面を起こし、それをもとに人形の動きを機械工学的に数値分析して説明する作業を続けてきた。松島さんの努力は5冊の冊子にまとめられている。

その5冊目のタイトルは「戻橋」である。

「戻橋」は歌舞伎舞踊で、本題を「戻橋恋の角文字(つのもじ)」という。渡辺綱が夜の一条戻橋で美女と道連れになったが、その美女は実は鬼女の化身で、見破った綱が名刀「髭切り」を一閃、片腕を切り落とす、という物語である。

2015年始め、桐生市の松島さんの実家から2体のからくり人形が見つかった。調べると、大正5年(1916年)の桐生天満宮のご開帳の際、本町5丁目が上演した「戻橋」に使われた人形だった。何らかの経緯で松島さんの父が入手、保存していたものらしい。

「佐藤さん、我が家からこんなものが見つかった。修復してくれませんか」

長年の知己である松島さんの依頼を佐藤さんが断るわけはない。

このからくり人形芝居は次のように進む。

舞台にはすでに見抜かれて元の姿に戻った鬼女と抜刀した右手を下げた渡辺綱が立つ。綱は左手で鬼女の右腕を掴んでおり、次の瞬間に右手を振り上げると悪鬼の右腕を切り落とす。悪鬼は飛び上がって逃げようとし、綱は切り取った鬼女の腕をさらしながら見得を切る。飛び上がった悪鬼は口を大きく開けて綱をにらみつけ、髪の毛を逆立てて怒りをあらわにする。

以上は修復なった「戻橋」である。

(調整中の佐藤さん)
(鬼女が髪を逆立てる)

松島さんがまとめた冊子によると、

「(オリジナルは)単に綱は太刀の上げ下ろし、鬼女は、口の開け閉め位の仕草であったろう」

つまり、見得を切ったり、髪の毛を逆立てたりというのは佐藤さんの「改造」が生み出した仕草である。

で、佐藤さん、これからどんなからくり人形を作ってみたいですか? と聞いてみた。私が聞かなくても、佐藤さんは必ずからくり人形を作り続ける。佐藤さんのひらめきからどんなからくり人形が生まれるのかが知りたかった。

「うん、私流の『弓曳童子(ゆみひきどうじ)』を作ってみたいんだよね」

「弓曳童子」とは、江戸からくりの最高峰の一つに数えられるからくり人形である。台座の上に乗った人形が、横に置かれた矢台から次々に4本の矢を取り、弓につがえて放つ。ギヤやカムを使った精巧なからくりだ。

佐藤さんの挑戦は、江戸から伝わるもののそっくりさんを作ることではない。必ず一工夫、二工夫を加えてオリジナルを越えたものを作ってしまう。

「ええ、私がこれまで見た弓曳童子は、弓に矢をつがえて引き絞るときに、弓の方を倒すんですよ。弓の上の方が人形から離れ、下の方が近付く。それで矢を飛ばすんだけど、あれ、不自然だよね。だって、本当に弓を曳くときは、右手で弦と矢を耳のあたりまで曳くでしょう。第一、弓の方をあんなに傾けたんじゃ、矢は的に当たらないわね」

ほう、それではどんな弓曳童子ができる?

「人形を少し大きめに、そう、身長80cm位にして、右手で曳くんです。それに、いまある『弓曳童子』は人形の下にある台座が、人魚と同じぐらいの高さがあって、いかにも複雑でしょう、といわんばかりにメカニズムを見せている。あんなもの、いらないんじゃないかなあ。もっと簡単な仕組みできると思ってるんですけどね」

2019年現在、佐藤さんは74歳。昭和58年(1983年)に心臓を患い、依頼ペースメーカーに頼って命を繋いでいる。

「だからね、私は生かされているんです。せっかく生かされているんなら、面白いことをやらなきゃね」

仕組みは簡単ながら、右手で弓を曳き絞る弓曳童子。一日も早く見てみたいと思うのは筆者だけではないはずである。