カフェラルゴ 第1回 真逆のカフェ

いつまでも人に使われるなんてまっぴらだ。サラリーマン、宮仕えは願い下げにする。必ず起業する。独立して経営者になるぞ……。

雇用の形が大きく変わり始め、正社員という安定した地位に就くのが狭き門になった時代に私たちはいる。いや、一部上場の大手企業の正社員になれたところで、会社がいつまで生き残るのか、一寸先は闇のような時代ともいえる。だから、同じような夢を抱く若者は数多いだろう。

高久保渉さん(1983年9月生まれ)、綾子さん(1986年1月生まれ)夫婦が「カフェラルゴ」を開いたのは長男貴弦(きいと)くんが間もなく3歳になろうという2015年8月のことだった。子育てに何かと手がかかる時期である。お金がますます必要になるのもこの時期からだ。それでも2人の決意は変わらなかった。渉さんは勤めていた鉄鋼会社をスッパリと辞め、独立の道を選んだ。

 

無謀である、と筆者は思う。店がうまく行かなかったらどうやって子どもを育てていくつもりだ? と説教の一つもしたくなる。多分、それが大人の常識である。

それだけでも無謀なのに、2人が立てた事業計画は、さらに無謀だった。客層を妊娠中のママ予備軍、子育て中の若いママたちに絞り込もうというのだ。しかも、

「ゆったりと、出来るだけ長居をしてください」

という店にするというのである。

そして、妊娠中、子育て中のママたちには、健康な食べ物は欠かせない。食材は自然のものしか使わない。

カフェの原価率はおおむね3割といわれる。ずいぶん低いように思われるが、売るものはコーヒー、ランチなど値がはらないものばかりだ。300円のコーヒーを1杯売って利益は210円、1000円のランチなら700円でしかない。微々たるものである。いや、店の経営には材料費だけでなく、店の内装などにかかった開業費を償還しなければならないし、家賃、水道・光熱費なども毎月必要になる。それを割り振れば、コーヒー1杯、ランチ1食の利益はもっと下がる。

だから、カフェの経営を始めようとする時の常識は、どれだけ幅広く客を集め、集まった客の回転率をどう上げるかである。10人の客がコーヒー1杯で4時間粘ったら、粗利益は2100円にすぎない。30分で客が入れ替わればその8倍だから16800円。客層の広さと回転率の高さは、カフェ経営の生命線なのだ。

もっと利益率を上げようと材料費に手をつける店だってあるだろう。国産の肉は高いから輸入肉に代える。昆布と鰹節で出しを取る手間と費用を省き、化学調味料を使う。業務用に売られているだしやルーを使って仕込みの手間と人件費を省く。企業経営の手法の一つがコスト削減なら、カフェ経営だって例外ではない。

どれをとっても、2人が進んだ道は、カフェ経営の常識の真逆だった。

カフェラルゴ 第2回 夢

桐生第一高校調理科を卒業した渉さんは中学時代から仲間とバンドを組むギター少年だった。高校時代にはJR 桐生駅前で友人と2人、アコースティックギターをひっさげて路上ライブを始め、卒業後は音楽活動にのめり込んだ。CDも出し、高崎市や太田市のFM局で番組を持つようになったのは2006年のことである。

だが、音楽でメジャーデビューを果たすのは限りなく狭い道だ。地元の鉄鋼会社に勤めながら土日の音楽活動を続けていた渉さんはなかなか大通りが見えてこないことに焦れたのか、いつしか、

「いずれは経営者になりたい」

という願いを持つようになっていた。

綾子さんは札幌で生まれた。5歳からピアノを始め、札幌大谷大学音楽学部音楽学科4年の時、ナベプロのオーディションに合格。東京で開かれた本選にも通り、卒業を待って上京、シンガーソング・ライターを目指した。

音楽が2人を繋いだ。初めて会ったのは2008年、東京のライブ会場だった。すれ違っただけだったが、2年後には付き合いを始め、急速に惹かれあってそれから半年もたたないうちに婚約した。

「桐生でも音楽活動は続けられるから」

という渉さんの「口説き」文句が決め手となって同棲を始め、翌年7月に結婚した。そして間もなく、最初の子を身ごもった。2人は心がふるえるほど嬉しかった。生まれてくる子を立派に育てなくっちゃ!

初めての、友達もいない桐生での妊娠は相談相手もなく、不安の固まりだった。予定日の2ヶ月前に札幌の実家に戻って落ち着き、2012年12月に長男貴弦くんを産んだ。体重3400グラムの元気な子だった。

出産が終われば次は子育てである。母にたくさんのアドバイスをもらい、生後1ヶ月の貴弦くんを抱いて桐生に戻ったのは年明けである。あれほど母に教えてもらったのだ。あとは自力で育てられるはず。

「私に育てられるかな?」

という妊娠初期に襲われた不安からは解放されたはずだった。

カフェラルゴ 第3回 実験店

頭から否定しながら、でも渉さんの提案は、綾子さんの脳裏にこびりついていた。

安定した暮らしを優先してとんでもないと言い切った。でも考えてみれば、そんなカフェがあって、同じような悩みを抱えるたくさんのママ、ママ予備軍と情報交換したり、悩みを打ち明けあったりしていたら、あのころの私はきっと救われただろうな。いつかはそんなカフェを開いてみたいな。でも、いまは無理!

貴弦くんが生まれ、子育てに悪戦苦闘し始めたからだろうか、時折そんな思いが脳裏に浮かぶ。
だからだろう。綾子さんは折に触れて

「ホントは主人と二人で、マタニティカフェをやってみたいんですけどね。でも、お金もないし、貴弦も小さいし、いまは無理なんです」

といろいろな人に話すようになっていた。
そんなある日のことである。

「だったら、やってみたらどうなの?」

突然、綾子さんのお尻を押す人が現れた。

「きっと、たくさんのママたちがそんなお店を待っているわよ。おやりなさいな。せめて試験的に開店してみたら? いまは無理だって諦めるのはそれからだって遅くはないでしょう。あのね、その実験に使えそうな場所に心当たりがあるの。しばらく待っててくれる?」

思いもよらない話だった。話をしてくれたのは、電車で隣に座ったから雑談を始めた初対面の婦人である。帰宅した綾子さんは渉さんに話したが、どう考えていいか分からない。とりあえず、2人であてにせずに待つことにした。

あてにしなかった婦人から、電話が来た。

「大丈夫だって。もとは託児所に使っていたところが空いてるのよ。しばらく使っていいんだって。どう、やってみない? やってみなさいよ!」

話を聞くと、水道・光熱費だけは負担しなければならないが、家賃はただ。しかも、東武線新桐生駅の近くである。立地もいい。

2人は考えた。自分たちが描いているマタニティカフェが受け入れられるのかどうかが実験できる。渡りに船の話である。とりあえず渉さんの仕事が休みの土日だけ開いてみて、客が来なければ止めてもとの暮らしに戻ればいいのではないか? 土日だけだから、イベントを中心にした展開をしてみようか。客に出すのは飲み物だけ。イベントへの参加費を取って……。

2人で相談を始めると、あれほど迷っていたのが嘘だったかのようにアイデアがあふれ出した。もう、2人の頭には前に進むことしかなかった。若さとは素晴らしいものである。

下見に行くと、もと託児所はアパートのような建物の2階だった。看板を出すスペースはない。これで客が来てくれるのかどうか。しかし、やってみるしかない。店名を「ベイビーズ & マタニティカフェ ラルゴ」とした。

2人でfacebookを始めた。店を多くの人に知ってもらうためである。地元紙が取材に来て記事を掲載してくれた。お金がない2人に出来る店の宣伝はそれだけだった。これでどれだけの人が来てくれるだろう?

カフェラルゴ 第4回 ゼロからのスタート

「ところで」

と私は話を切り出した。

「2人で起業を決めたとき、開業資金はいくらぐらい貯めてあったの?」

渉さんは妙にきっぱり言った。

「ゼロ、です。全くありませんでした」

えっ、これから起業しようというのに、全く資金を準備していない!? それって、無謀というか、世間知らずというか、サンチョ・パンサを連れて世の不正をただす旅に出たドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャというか……。とにかく、ちょっと無茶すぎるんじゃないか?

「鉄工所に10年勤めていましたので、計算したら50万円ぐらいの退職金が出るはずで、それをあてにしました。いえ、それしかあてはありませんでした。実験店舗だった新桐生駅近くの店なら、それぐらいで看板をつくり、内装を少しいじって足りない食器類なんかを買えば開業できると踏んでいたんです」

しかし、いまの店は全く違うところ。50万円で開業できたはずがない。

「はい、起業を決めてすぐでした。実験店舗の大家さんから、都合ができたので店を返してくれといわれまして。いやあ、退職届は出しちゃったし、あの時は本当に途方に暮れました」

実験店舗が使えないとすると、50万円ぽっちでカフェを開けるはずがない。2人は

「銀行から借りよう」

と、地元の銀行や信用金庫に融資を申し込んだ。そのための事業計画書は渉さんが必死になって書き上げた。

しかし、2人にはカフェを経営した経験も、担保に差し出せる資産もない。金融機関の敷居は、当然ながら高かった。預金者のお金を運用する金融機関は、貸した金を回収できる見込みがないところにはお金は貸さないものである。

あるところでは、

「これ、甘い事業計画ですねえ。いいですか、事業を興すというのは……」

と説教された。

「あなたの事業計画、夢物語ですよ。地に足が着いていない。私たちは夢物語にはお付き合い出ません」

と門前払いに近い扱いも受けた。

2人は行き詰まった。他にお金のあてはない。どうしよう……。

カフェラルゴ 第5回 開店

2人は根っからの楽観主義者である。どうなるか分からない先のことでくよくよ考えたりしない。願えば必ず実現すると信じるたちである。もっとも、口の悪い人なら、無計画な世間知らず、と切って捨てるかも知れないが。

銀行に断わられ、開業の資金計画にめどが立っていなかった4月、2人はいまの住居に引っ越したのである。3階建てのビルで、住居部分の2、3階を借りた。国の審査に通れば1階の店舗部分も借り増して改装する。

「ここでカフェを開く」

と決めたのだ。
紹介してくれたのは、桐生市の不動産会社「アンカー」の川口貴志社長である。そう、このホームページを運営している会社の経営者だ。
ある会合で知り合った。カフェが出来る住居軒店舗を探していると相談すると、1ヶ月半ほどして連絡が来た。

「適当な物件が出ました。家賃も安いし最適だと思います」

2人は一目で気に入り、すぐに引っ越したのだ。

「何とかなる。きっと何とかなる」

引っ越したのは、国に補助金の申請書を出した直後だった。「何とかなる」は、きっと国の補助金が下りるという、願いにも似た気持ちだった。

半月たった。だが、国からは何の反応もない。問い合わせすらない。1ヶ月が過ぎた。まだ何も言ってこない。

「どうなんだろう。やっぱりダメなのかな……」

5月に入り、毎日のように晴天が続いた。最高気温が30度を超える日はほとんどなく、1年中で一番気持ちのいい季節かも知れない。だが、決定の知らせをジリジリする思いで待ち続ける2人の心は晴れなかった。カフェを、本当に開けるのか?

一日千秋の思いで待っていた封書を郵便受けに見つけたのは5月21日。渉さんは恐る恐る開封した。

採択通知書

「やった! 綾子、補助金が出るぞ! カフェが開ける!!」

玄関から飛び込んだ渉さんは、綾子さんと抱き合って喜びの雄叫びを上げた。

開店準備が始まった。といっても、国の制度は複雑である。採択通知書が届いてもすぐに工事にかかってはならない。補助金の「交付決定通知書」が届いて初めて改装工事に取りかかれるのだ。それまでに工事にかかれば、補助金が出なくなる。

ジリジリしながら待った。その間、須田さんのアドバイスに従い、「採択通知書」を持って銀行の門をくぐった。開店資金として200万円では足りないし、実際にお金が出るのはずっと先だ。当面の資金は融資を受けるしかない。採択通知書を示すと、今度は300万円の融資がすんなり決まった。国の補助金の「採択通知書」は水戸黄門の印籠に似たものらしい。国の補助金が下りたら200万円を返済する。残りは自力で返す。

やっと1階部分を借り増し、内装工事を依頼する工務店と綿密な打ち合わせを始めた。1階は食品の販売店舗に使われていたから、土間だったところを板張りの床にし、一番奥に厨房をつくる。床は子どもが転んでも怪我をしないようにクッションフロアにする。授乳とおしめを替えるスペースをつくるため、新たに壁を設ける。綾子さんがピアノ教室を開くためのスペースも必要だから、そこにも壁をつくって、壁にはカウンターを設けよう……。