カフェラルゴ 第6回 ネガ

2018年夏のある日、午後1時半過ぎのカフェラルゴに行ってみた。4つの座卓はこの日もすべて埋まっていた。乳飲み子から幼児まで10人ほどの子供たちと、そのお母さんたちである。

フラリと入ってきた私をみて、怖そうな顔をする子がいる。無視して遊び続ける子がいる。何故か寄ってくる子がいる。お母さんたちは昼食に注文した食べ物を間に雑談に余念がない。

高久保夫妻の狙い通りのカフェ風景である。だが、客が店主の狙い通りに動くことはないはずだ。このお母さんたちは、車のチャイルドシートに子どもを乗せて運転し、お金を払って、自主的にこの店に来る。何故なのだろう?

私は、座布団に寝かされていた男の子を抱き上げた。可愛かったからだ。男の子は嫌がりもせず、私の顔を見つめてくる。膝を立ててその上に座らせると、ニコニコ笑い出した。子供をあやしながら、周りにいたお母さんたちに話を聞いた。

——どうしてここに来るんですか?

「話し相手を求めて、ですかね」

——話し相手? だって、ご主人がいるじゃないですか。

「主人? ダメよ。主人じゃ話し相手にならない」

——だって、一緒に子供を育てているわけでしょ?

「ダメダメ。主人には仕事があって、どうしても子育ては二の次になるようで、何を話しても『適当にやっておけばいいんじゃない』って感じなんですよ。こっちがいろいろ迷ったり悩んだりしているのに、向こうは軽く受け流すというか……」

いわれてみれば、休みの日は子供を可愛がったつもりの私も、日常的に子育てに関心を持った記憶はない。放っておいても子供は育つ、とまではいわないが、専業主婦である妻に任せておけば間違うはずがないと思い決め、時間の大半は仕事に注ぎ込んで家庭、子供を顧みることはほとんどなかった。

でも、子育てって、そんなに迷いや不安が伴うのか?

そう思いながら聞いた数人のお母さんたちの話は切実だった。

初めての子育ては、初めての連続である。もちろん、本を読んだり、ネットで検索したりして知識を得る努力はする。だが、そんなメディアから得た知識だけですべてが解決できるほど、子育ては生やさしくはない。

・母乳は飲むのに、ほ乳瓶でミルクを飲ませようとすると乳首を吐き出してしまう。

・離乳食をなかなか食べてくれない。私の作り方が悪いのか、食べさせ方が悪いのか、熱すぎるのか、冷たすぎるのか。それとも身体の具合がどこか悪いのか。もともと食の細い子なのか。

・子供が宵っ張りでなかなか寝てくれない。寝る子は育つというのに、こんなに寝ないでちゃんと育つのだろうか? どうしたらたくさん寝てくれるようになるのだろう?

・今日はうんちの色がいつもと違う。変わった食べ物を与えた記憶はない。これ、病気?

・母乳を与えているが、胸の張り方が昨日と何か違う。どうしたんだろう?

・0歳、1歳、2歳の3人を私ひとりで入浴させなくてはならない。どうやったらいい?

・何か、やることなすこと失敗ばかりしている気がする。私には子供を育てる能力がないのかな?

カフェラルゴ 第7回 広くしたい!

2018年12月現在で、カフェラルゴは誕生から3年半近くになった。定休日は木曜と第2日曜日だけ。そのほかの日は貴弦くんと2016年9月に生まれた乃悠(のはる)くんを保育所に預け、2人で必死に働いた結果だろう。

「必ず何とかなるさ」

という究極の楽天家である渉さんと綾子さん2人の確信を、2人が力を合わせて実現してきた。

だが、3年も過ぎると課題も見えてきた。

「狭いんですよね」

いま、客用のスペースは30㎡足らずしかない。厨房を切り詰め、ピアノ教室用のスペースも最低限にしたが、それでもこれだけしか確保できなかった。
これでは子ども連れのママさんが10組も入れば満席だ。営業日のほぼ6割が満席になるから、せっかく来てもらった客を

「申し訳ありません。満席ですので……」

と断らなければならないことがしょっちゅうある。

もともと客の回転率を全く考えない店である。ママたちは昼食の店として使うことがほとんどで、お昼前にやってきて午後2時、3時までいる。それは狙い通りなのだが、売り上げはその分だけとなり、利益は雀の涙ほどしか残らない。

それに、これだけのスペースに10人内外のママたちと10数人の子どもが入れば、子どもが伸び伸びと遊び回る場所がない。乳幼児なら寝かせておいたりだっこしていたりすればいいが、走り回ることが大好きな子供たちだってやってくる。一人が走り始めれば、つられて走る子供が増える。ママたちはついつい、

「危ないでしょ! 走るの止めなさい」

と小言をいってしまう。

「子どもにとって、友だちと遊べるのはいいのですが、狭いから自宅で遊ぶのと一緒になってしまいますよね」

だから、広い店が欲しい。いつでも入れるカフェ、子供たちが思い切り遊べるカフェにしたい。

「いまの3倍というと欲張りすぎかも知れませんが、せめて2倍ぐらいの広さに出来たらお客様をお断りすることもなくなるでしょうし、子どもの声がするから、と立ち寄って下さる普通のお客様だって期待できると思うんですよ」

小黒金物店 第1回 手

小黒定一さんはこんな手をしている。鉄を鍛え続けて、もう70年を越えた。

たったいま洗ったばかりだ。それでも爪の間には鉄の粉や砥石の粉、なにやら分からない粉が残って黒い。粉は手のしわにも入り込み、居座っている。

1日の仕事を終えると、まずガソリンで汚れを落とす。次に石けんでガソリンを洗い流す。そして入浴。夏場ならそれで綺麗になる。だが、冬場はいけない。脂っ気がなくなって乾燥した肌にこびりついた汚れは、歯ブラシに石けんをつけてこすらないといなくなってはくれない。

左手はペンチのお化けのような「つかみ」という道具をあやつる。「つかみ」で灼熱した鉄を挟んで金敷に置き、右手に持つ槌で叩く。

振り下ろす槌は、遠心力で手から飛び出そうとする。止めようと指に力が入る。左手は、叩かれてはねる鉄を押さえつける。

「つかみ」も槌も、軽く握るのがこつだ。指先にはそれほど力を入れない。だが、同じ作業を続けたためだろう、右手の小指は曲がったままで自力では伸びない。伸ばすには左手で引っ張ってやらねばならない。両手の人差し指から小指までは、第1関節から先が親指の方に曲がっている。どうやら、「つかみ」も槌も、このあたりに引っかかって手の中に収まっているらしい。

そして、節がひときわ太くなった指。

「若けえころから、俺の指は太くて形が悪かったからね。それでだんべ」

だが、そこに鍛冶屋の年輪が加わっていることは疑いようがない。

1000℃近くまで熱されてミカン色に灼熱した鉄を叩けば火の粉が飛ぶ。火の粉は遠慮なく肌に落ちて焼く。手から腕にかけて火傷の跡は数え切れない。

「でも、慣れちゃうんだね。若い頃は火ぶくれもできていたが、いまじゃ風呂に入ってガサガサって洗うと、少しはピリピリするけど、翌日は何ともないんんだ」

小黒金物店 第2回 鍛接

小黒さんは、古来の「鍛接法」で刃物を鍛える。
鍛接法とは、柔らかい地金(ほぼ純粋な鉄)と硬い鋼(はがね=炭素分がわずかに混じっている鉄)を熱し、鉄の粉にホウ酸を混ぜた鍛接剤を間に振りかけて槌で叩いてくっつける製法のことだ。

鋼は焼き入れをすると固くなる。だから切れ味が出るのだが、曲げや衝撃に弱い。折れたり欠けたりする。
地金は鋼に比べればずいぶん柔らかいから、刃をつけてもすぐに切れなくなる。しかし、鉄の針金を思い出していただけばお分かりのように、ぶつけても折れたり欠けたりせず、自在に曲がる。粘りがある。
地金と鋼を併せればこの両方の良さが生きる。切れ味を保ちながら折れにくくなるのだ。これが刃物である。

切れ味とその美しさで知られる日本刀は、地金を鋼で巻いて鍛える。地金を中に入れるのは折れにくくするためだ。
包丁やナイフ、釜などは地金で薄い鋼を挟んだり(両刃の場合)、地金と薄い鋼をくっつけたり(片刃の場合)する。刃の部分は鋼で、ほかは地金でできている。これで切れ味は良く、ねじっても折れにくく、おまけに研ぎやすくなる。
この地金と鋼を、日本では昔から鍛接してきた。鍛接は沸かし付けとも呼ばれた。

ところが、技術革新の波がやってきた。家庭用の包丁などには錆びにくいステンレスやセラミックを使ったものもある。しかし切れ味が長続きせず、研ぐのも難しい。
だからプロは地金と鋼を併せた「打刃物」を使う。高級な刃物の代名詞である。がだが、ここにも技術革新の波は容赦なく押し寄せた。鍛接という技法を使わなくても、地金と鋼が最初から接合されている複合材が現れ、普及が著しい。

小黒金物店 第3回 独立へ

 小黒さんの子どもの頃、桐生には機音が鳴り響いていた。いまはほとんど街から消え去った昔を懐かしみ、

 「ガタン、ガタン、がチャ、ガチャというリズミカルな音でねえ。あれはジャズですよ」

 という人もいる。機音を懐かしむ桐生人は多い。

 だが、小黒さんは違ったものに惹かれた。まだ市内のあちこちににあった鍛冶屋の音である。トンテントンという響きが何よりも心地よかった。下校途中にあった鍛冶屋で道草を食うのはいつものことだった。

 「僕、鍛冶屋になろう」

 思いつきが決心に固まったのが何歳の時だったか、今となっては記憶にない。だが、その思い通り、いまだに槌で鉄を鍛え続けているのだから、よほど強い思いであったろう。

 「仕事を覚えるのなら早いほうがいい。どうだ、うちに来ないか」

 多分、親に鍛冶屋へのあこがれを親に話したのだろう。新潟県燕三条市の近くで鍛冶屋をしていた親戚から話が飛び込んだ。小黒さんはまだ14歳だった。昭和20年(1945年)。戦争はまだ続いていた。小黒さんは桐生を離れ、徒弟としてその鍛冶屋に住み込んだ。

 14歳といえばまだ身体の骨格も定まらない時期だ。農作業用の鎌作りを専業としていた親戚には、仕事が降るようににやってきた。当然、幼い小黒少年も重要な働き手である。親方にいわれるままにコークスを砕き、形が整った鎌を研いで刃を付けた。半年過ぎた頃には、真っ赤を通り越してミカン色になった鉄を槌で叩いて伸ばし、鎌の形に近づけた。

 「そういやあ、鍛接も、78ヶ月の頃からやらされたね」

 刃物をざっと振り返っておこう。

 地金に固い鋼(はがね)を鍛接し、再び800℃ぐらいに熱してやると鉄は赤みを帯びたミカン色になって柔らかくなる。それを叩いて曲げたり伸ばしたりして形を整え、焼きを入れて鋼を固くする。あとは研いで刃を付ければ刃物になる。

 だが、鎌作りはもう一つ作業が必要だ。ご存じの通り、鎌の刃は微妙に曲がっている。あのカーブは機械で打ち抜いて出すのではない。鉄を熱し、柔らかいうちに槌で叩いて出すのだ。事前に用意した型に合わせて曲げていくのだが、これが難しい。まっすぐな包丁やナイフに比べ、高い職人技がいる。

 憧れた仕事である。懸命に取り組んだ。

 「地金と鋼がなかなかくっついてくれなくて。ああ、俺はうまくなんないなあ、って情けない思いをしながら槌を振っていたんだ。いま考えると、当時の鍛接材がの質があんまり良くなかったのかもしれないが」

 それでも4年目に入ると、小黒さんが一人で鍛えた鎌が売れるようになった。