小黒金物店 第4回 増えた小黒ファン

 ぼちぼち注文が入り始めたのは、独立して56年たった頃である。

 作るのは、習い覚えた鎌がほとんどだった。いつしか

 「小黒の鎌は良く切れる」

 という評判が生まれていた。教え込まれた技法に独学の工夫を加えた小黒さんは、鍛冶職人として確実に成長していたのである。

 鎌の評判が広がると、だったら鍬を、と注文する客が来始めた。市内と周辺の農家に、小黒さんの農具の評判が広がった。

 「農具がそんなにいいのなら、山仕事の道具もいいものを打つはずだ」

 やがて山仕事の道具の注文が舞い込んで来た。桐生は山に囲まれ、山林が豊かである。山仕事をする人たちの期待を、小黒さんの刃物は裏切らなかった。評判が評判を呼び、仕事に追われ始めた。

 すぐに、自分が打ったものだけでは、客に応じきれなくなった。独立して7年後、いまの場所に店舗を持ち、

 「これなら普通に使えるだろう」

 という刃物を仕入れて並べた。店の売り上げの8割は仕入れ品だった。小黒さんに刃物を注文しに来て、順番待ちの列が長く伸びていることを聞かされた客が、

 「それじゃあ仕事に間に合わない。小黒さんの店に置いてあるのなら間違いないだろう」

 と買っていってくれたのである。

 もちろん、小黒さんは自分で刃物を鍛える鍛冶屋である。自作品を並べる棚を用意したのはいうまでもない。だが、そこはいつも空っぽだった。作るそばから羽が生えたように売れて行ったからだ。

 中でも、鎌の評判が高かった。切れる。切れ味の持ちがいい。手入れさえすれば長く使える。自分が、自分の畑で一番使いやすいように刃の曲がり具合(田畑の土質で鎌の形も変える)や柄の長さ(背の高さで使いやすさが違う)が調整してある。

 注文は市内だけではなかった。県内だけでもなかった。栃木県や長野県、福島県からも来た。遠くは島根県から電話で頼んでくる人がいた。

 「別に宣伝もしなかったんだが、どうやって私のことを知ったのかね?」

 小黒さんの仕事を野鍛冶という。農具を作る鍛冶屋さんのことだ。だから農鍛冶とも書く。どちらも「のかじ」と読む。

 農具は道具である。道具としての刃物に求められるのは切れ味と使い勝手、それに持ちの良さだ。客が満足する道具を作り続けないと、ほかの鍛冶屋にいつか客を取られてしまう。

「お客さんにいいといってもらえなくちゃ」

野鍛冶の鎌専門鍛冶屋で修行した小黒さんの身体には、野鍛冶の根性が染みついて離れない。

小黒金物店 第5回 小黒さんの仕事(上)

小黒さんの刃物は切れると書いた。切れ味が長持ちするとも書いた。
どんな作り方をすればそんな刃物ができるのか? 小黒さんの仕事を見た。

刃物作りは材料の切り出しから始まる。
普通の大きさの鉈を例に取る。最も一般的な鉈は130匁(約500g)だ。これを作るには、地金を550g、鋼を50g切り出す。いちいち量るわけではない。どちらも目分量だが、狂いはほとんどない。

これが鉈の材料である。仕上がりより100gほど重いが、鍛えているうちに酸化皮膜になってはがれ落ちる分と、研ぎで減る分がその程度ある。

最初の工程は鍛接だ。鉄と鋼を1000℃1100℃に熱する。

小黒さんの鍛冶場には軽量発砲コンクリートで囲われた火床(ほど)があり、電動の送風機で下から空気を送り込む仕掛けになっている。燃料にはずっとコークスを使っている。経済的で使いやすいのが理由だ。
燃えているコークスの間につかみで挟んだ鉄と鋼を突っ込む。足下のレバーを踏んで送風量を最大にするとコークスから大きな炎が上がって火力が強まり、数分で鉄も鋼も光り輝くミカン色になる。このあたりがちょうどいいタイミングだ。両方を同じ温度にしないとくっつかない。神経を使うところだ。

 「いまだ!」

と判断するのは勘である。これも、まず狂わない。

コークスから引き出した地金にパウダー状の鍛接剤を振りかける。鉄の粉にホウ酸を混ぜたもので、市販の鍛接剤では飽き足らなくなった小黒さんが、鉄工所で出る鉄粉とホウ酸を自分で配合した自家製だ。良く着く。

鉄粉を分けてもらう鉄工所は、純粋な鉄だけを削っているところに限る。普通の鉄工所は鉄以外の金属も削るので、金属粉に鉄以外のものが混じる。これを使うと鍛接がなかなかできない。

20年ほど前、刃物産地に指定されている新潟県長岡市与板町から数人の鍛冶職人が訪れた。みな50代と見えた。小黒さん自家製の鍛接材の評判を聞いてきたのだという。

 「鍛接剤の作り方を教えてもらえませんか」

本当の職人は鷹揚である。求められれば、作り方などいくらでも教える。教えたところで、自分の方がずっとうまくできるという自信がある。

 小黒さんは気軽に教えた。

 「日帰りで、何度かおいでになった。その後は来ないから、自家製の鍛接材が作れるようになったんだんべ」

小黒金物店 第6回 小黒さんの仕事(下)

 刃物は厚く作って薄く研げ。
これが刃物造りの原則である。

 熱され、叩かれた鉄の表面は、小黒さんによると

 「空気にさらされることもあって疲れてるんだんべ」

 この疲れている表面は、研いで落としてやらないとまっとうな刃物にはならない。だから厚く作って研ぐ。研ぎも重要な工程なのだ。

 小黒さんの鍛冶場では臼のような形の砥石がモーターでぐるぐる回転しており、その上に絶えず水が落ちて表面は濡れている。これに鉈らしい形になった金属を押し当て、正確に鉈の形にする。見る見る砥石と金属が削れ、削られた粉が水と混じり合ってペースト状のものがモリモリと出てくる。小黒さんは何度も包丁を砥石から離し、ペースト状のものをぬぐい取りながら形を確かめる。この間、約20分。

 見た目はやっと鉈になった。が、このままでは切れない鉈である。まだ最も重要な工程が残っている。焼き入れである。

 鋼は焼いて急速に冷やすと組織が変化して堅くなる。焼き入れをしていない鋼は鋸で切ることができるが、焼き入れをすると鉄の結晶の中に炭素が入り込むマルテンサイトという構造ができ、最も固くなるのである。

 そして、打刃物づくりで最後に切れ味を決めるのが、この焼き入れだ。まず加熱するのだが、絶対に温度を上げすぎてはならない。熱しすぎた鋼を適温になるまで冷やして急冷するとボロボロと刃こぼれする鉈になる。かといって、適温より低い温度までしか上げずに急冷しても刃物としては使い物にならない。一直線に適温まで温度を上げ、適温になったと判断したら直ちに急冷する。

 それに、焼き入れする鋼は、全体が同じ温度になっていなければならない。ここは750℃、こちらは800℃、この部分だけは770℃、というのでは、焼きが入った部分と入らなかった部分が混じり合った刃物になって使えない。

 では、適温とは何度なのか?

 770℃から780℃というところだね」

 小黒さんの火炉には1200度まで測れる温度計が取り付けてある。だが、小黒さんは、その温度計も信用しない。頼るのは加熱された鋼の色、だけである。

 「赤いような、オレンジのような微妙な色なんだ。夕焼け色、という人もいるなあ。見る物の色は周囲の明るさで変わってしまうんで、焼き入れをするのは夕方から夜にしてる」

小黒金物店 第7回 一人だけの弟子

 福島からバイクで乗り付けた高校生がいた。

 「俺、鍛冶屋になりたいんです。伝統工芸士を目指してます。弟子にしてもらえませんか?」

 ほう、福島からわざわざ、ね。しかも、まだ高校生で。どこで私を知ったのか?
悪い気はしなかった。だが、小黒さんは丁寧に断った。

 「うちじゃ修行にならないよ。いろんなものを作るからね。修行するんなら専門の鍛冶屋さんでみっちり基礎を勉強した方がいい」

 鍛冶の仕事を覚えるには、同じものをいくつも作ってコツを飲み込むしかない。鎌を作り続けて仕事を覚えた小黒さんはそう思う。いまの小黒さんのような多品種少量生産では毎日作るものが変わる。だからコツをつかむのに時間がかかってしまう。それは気の毒だ。
どう頼まれても、だから弟子は取らない。

 「その修行が終わったらおいで。いくらでもアドバイスはしてあげるから」

 そんな小黒さんだが、実は1人だけ弟子がいた。一人息子の充さんである。別に強制も説得もしなかったのに、桐生工業高校に通っている間から、店が忙しい時は黙って仕事を手伝った。卒業してもそのまま鍛冶場に残った。

 高校の先生は、

 「充君は成績がいい。是非大学に行かせてほしい」

 と言ってこられたが、断った。家計にゆとりがなかった。
充さんは不満を口にするわけでもなく、大学の「だ」の字も口にせずに黙々と鍛冶仕事に取り組んだ。

 「やっと仕事の相棒ができたみたいで、嬉しかったなあ」

 仕込んだ。毎日朝8時から夕方6時まで一緒に鍛冶場に立ち、火の管理、鍛接、火造り、研ぎ、焼き入れ……。

 「やっぱり、学校ってすごいもんだね。私は長年の勘で仕事をするんだが、工業高校を出た充は理屈を知っていた。私の方が教えられたこともいっぱいあったよ」

 覚えが早かった。失敗は繰り返さない。加えて、なにやら自分で工夫も加えているようだ。

 「こいつ、俺より腕のいい鍛冶職人になるんじゃないか?」

 期待が膨らんだのは、親の欲目だけではなかったと思う。
客に受けた注文を

 「お前が打ってみろ」

 と充さんに回したのは、わずか半年か1年後だ。客は

 「いつもいい物を打ってもらって。小黒さん、いい跡継ぎができたね」

 と喜んでくれた。

小黒金物店 第8回 押しかけ弟子

何度か来たことがある若者だった。刀の鞘を作るナイフと特殊な鑿を作ってくれという。引き受けて鍛冶場に入ると、そのままついてきて横に立ち、小黒さんの仕事をじっと見ている。
よほど刃物が好きなのだろう。時々こんな客がいる。だから、ふと口にでた。

「学生さん、あんたもやってみませんか? なーに、そんなに難しくはないから。うん、悪戯してみなよ」

2015年春のことだった。

若者は斉藤悠さんという。群馬大学医学部の学生である。当時4年生。
古武道の剣術をやる。持っている5振りの日本刀を、ネットで知った桐生の研ぎ師に研いでもらうようになり、その研ぎ師が鞘も作ることを知って鞘も頼んだ。見ているうちに自分でも鞘が作りたくなった。研ぎ師の刃物を借りて作り始めたが、これまで使ったどんな刃物とも切れ味が違う。

「すぐ近くにいる小黒さんの打ったやつだ」

とい聞いて、小黒さんにナイフと鑿(のみ)を注文しに来た。ついでに、小黒さんの仕事の見学を決め込んだのだった。

出来上がった鑿とナイフを使ってみた。切れる。日本刀の切れ味を知る斉藤さんの目には、小黒さんが打った刃物は国宝級の刀鍛冶が打った刀と並べてもおかしくない。刃を当てるとすっと木の中に切れ込み、あまり力を加えなくても正確に、思い通りに木をそぎ取る。
魅せられた。

小黒さんは弟子を取らない。昔から守ってきた原則である。いや、息子の充さんは弟子だったかもしれないが、あれが最初で最後だ。あれからは、鍛冶場で一緒に槌を振りたくなった相手はいない。
これまでも、熱心に仕事を見ている人を誘ったことはあった。だが、ほとんどは尻込みした。来るようになっても、数回で姿を見せなくなった。

小黒さんは軽い気持ちで斉藤さんに声をかけた。いつもの癖、ともいえる。そして、斉藤さんも刃物を打つ真似をすれば満足するだろう、としか思っていなかった。
斉藤さんは違った。原則毎週土曜日、授業が混んでいない時期はほぼ毎日、前橋市の下宿から小黒さんの店に車でやってきて鍛冶仕事に励みだした。いつまでたっても途切れない。

「この若者、熱心だな」

小黒さんはいつしか、

ちょっとばかりのアドバイス

をするようになった。

「槌はもっと軽く握らなきゃ」

「ほら、火床から出すのはいまだよ」