朝倉染布第4回 ガスマスク

毒ガスの原料にもなるトリクロロエチレンは、そのままでも毒性がある。気化したガスを少しでも吸い込めば頭痛や目まいがを引き起こす。大量だと死につながりかねない。

赤ちゃんの柔らかい肌は守りたい。しかし、そのために作業員に犠牲を強いることはあってはならない。さらに、気化した溶剤が工場の外に漏れ出せば、工場近くで暮らす人たちに同じ被害を与えてしまう。

もちろん、周辺問題については最初から見通しがあった。それがなければ生産を始めることは不可能である。

「たまたま、隣の足利市の山の中に工場を持っていました。人里から遠く離れており、周りには人家が全くないところです。縁があって土地を買い取り、当時はプリント工場として使っていたのですが、工場にゆとりがあったので、空いているところに撥水加工の設備を入れたそうです。だから、周辺問題は心配ありませんでした」(朝倉剛太郎社長)

だが、工場内は別だ。従業員は危険なトリクロロエチレンが漏れ出す恐れのある建物の中で働くのである。対策として、全員にガスマスクを義務づけた。しかし、ガスマスクをすれば息苦しく、作業効率が上がらないことがすぐに分かった。このため、ヨーロッパからリブラテックスという密閉型の加工機械を輸入した。

「当時で数千万円したと聞いています」(同)

この機械の中で溶剤に溶けた撥水剤を布に付着させる。撥水加工の工程は密閉された箱の中で進む。気化した溶剤を回収する機能もあるので溶剤のガスは一切外に漏れ出さない。これで常時ガスマスクを付けるは必要なくなった。

朝倉染布第5回 エマルジョン化

今度は東レの技術支援は望めない。朝倉染布だけの力で立ち向かうしかない。本当にできるのか? 社内は期待と心許なさが交錯した。だが、やらなければ、この隘路を切り開くことはできない。

「当時、フッ素系の撥水剤で水溶性のものが出てきた。これなら有機溶剤を使わずに済むので試してみた。しかし、撥水性能があまり良くない。いくら安全とはいえ、これを使っていたら他社と同じ加工しかできなくなる。何とかしなければ、と思いました」

当時を振り返るのは、岩崎延道技術顧問(元取締役技術部門長)である。

岩崎さんたちは3人で社内チームを作った。ふと思いついたのは、界面活性剤の利用である。有機溶剤にしか溶けないものでも、水との親和性を高める界面活性剤をうまく使えば水に溶かせるのではないか?
長年の経験が呼び起こした「勘」ともいえる。

染色工場は界面活性剤をよく使う。会社にはいつも10数種類の界面活性剤が備蓄されている。会社になくても、メーカーに声をかければいつでも試供品として提供してくれる。付き合いのないメーカーの界面活性剤は買ってくればいい。

こうして、50種類ほどの界面活性剤を集めた。さあ、いよいよ開発である。

朝倉染布第6回 パンパース

技術陣の奮闘で、危険と隣り合わせだった加工作業が安全になった。そればかりがか、 撥水機能も格段に良くなった。嬉しいことに消費者も質の向上を感じ取ってくれたらしい。朝倉染布の撥水生地生産は順調に伸びた。

東レの生地を使い、朝倉染布が撥水加工した生地でできたおむつカバーは、市場を席巻する勢いだった。防水素材を使ったおむつカバーの出番は、もうない。
あまりの人気振りに目をつけたのか、撥水機能をうたった類似品も出回り始めた。しかし買ってテストをしてみると性能がまったく違う。水が漏れたり、なぜか肌が蒸れたり、数回の洗濯で撥水性がほとんど消えたり。

研究に研究を重ねて商品化にこぎ着けた技術力は一朝一夕で追いつかれることはない。自信は確信に変わった。他社の動きはまったく気にならなくなった。

だが、好事魔多し、という。
思いも寄らないところから強敵が現れた。パンパース。使い捨ての紙おむつである。

パンパースは1961年、アメリカのP&G社が製品化した紙おむつである。当初は重くてかさばり、価格も高かったので余り売れなかった。しかしP&Gは、「使い捨て」というコンセプトはいずれ必ず受け入れられると信じていたのだろう。諦めることなく、コツコツと軽量化を進め、高性能吸収剤を使って性能向上を図るなどの研究開発を続けた。粘り強い努力で徐々に使いやすさ、便利さが認められ、1977年にはアメリカのおむつは70%以上が紙おむつになっていた。大ヒット商品である。

朝倉染布第7回 奇跡の糸

突然だが、話が少し遡る。

1959年、米国のデュポン社が「奇跡の糸・スパンデックス」を世に出した。1000万ドルの開発費と15年の歳月を費やして生み出したといわれる、伸びる糸、である。商品名を「ライクラ」といった。

糸は伸びない。だから繊維に伸縮性を与えるには編み方を工夫するしかない。それが常識だった。だが、糸自体が伸び縮みすれば、デザインも製法も、出来上がった製品の品質もまったく変わる。スパンデックスは、キャッチフレーズが決して大げさではない、言葉通りの奇跡の糸だった。

朝倉染布が奇跡の糸の研究を始めたのはそれからわずか2年後、1961年夏のことだった。この糸でできた製品が日本で売りだされるずっと前である。デュポン社との合弁で「奇跡の糸」の国内生産を計画していた東洋レーヨン(現・東レ)の商品研究所が共同研究を呼びかけてきたのだ。
基礎研究が終わって1966年、合弁会社の東レ・デュポン社が誕生してスパンデックスの国内生産が始まった。研究のパートナーだった朝倉染布は、この糸の染色加工の技術開発を頼まれた。

糸は布に仕上げ、染色加工をしなければ消費者の手に渡る製品にはならない。すでに世にある糸なら、最適な染色加工法は確立している。だが、スパンデックスは生まれたばかりである。染色加工法をゼロから作り上げなければならない。

染色加工とは化学反応を起こすことだ。だから、染色加工の仕方次第では糸の性質が変わり、能力を殺してしまうこともある。

問題は染色だけではない。伸び縮みする奇跡の糸は敏感な糸でもあった。染色加工の前処理工程でどの程度の力で引っ張り、何度の熱風で乾燥させるかで仕上がりがまったく変わってしまうのである。

朝倉染布第8回 競泳用水着

1970年代、競泳用水着が大きく進化し始めた。
それまでのオリンピック選手が身につけていたのは、私たちが海やプールで身につける水着とほとんど変わらない水着だった。水着とは人前にさらすことがはばかられる身体の一部を隠すものでしかなかったのである。水着を武器として記録を伸ばすという発想は、まだどこにもなかった。

1964年、東京オリンピックで日本の競泳選手が使った水着は、トリコット編み(高給肌着やマフラーなどに使われる編み方。伸縮性がありほつれにくい)したナイロン100%の生地でできていた。この編み方だと縦には伸びないが横には伸びる。そのため、泳いでいると身体と水着の間に水が入って膨らみができて水の抵抗が増すのだが、それが問題だという意識はなかった。

続く1968年のメキシコ五輪でも、水着の素材はやはりナイロンのトリコット編みだった。女子用水着の腰にくびれを入れるなど、身体の凹凸に合わせた裁断が採用されたのがほとんど唯一の進化だった。

1972年のミュンヘン五輪では女子用水着の背中の中央に縫い目線を入れて動きやすくした。だが、生地は依然としてトリコット編みのナイロン。

勝つか負けるかの勝負の世界である。勝利を求めて「改良」の努力は継続された。だが、「改良」をいくら積み重ねても「革命」にはならない。