ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第1回 開拓者

現代の名工。

「あなたが身につけた技能は飛び抜けて優れている」

と国が認め、厚生労働大臣の表彰を受けた「卓越した技能者」の通称である。職人として最高のお墨付きをもらうのは毎年150人(1995年度までは100人)で、1967年度に制度が始まってから2018年5月までで4000人をわずかに越えるだけだ。

この狭き門をくぐるには、まず都道府県知事、事業主団体などの推薦を受けなければならない。推薦条件の冒頭にはこう書かれている。

「技能の程度が卓越しており、当該技能において国内で第一人者と目されていること」

大澤紀代美さんは1994年、「現代の名工」になった。54歳の時である。刺繍の世界では初の受賞だった。表彰状、楯は桐生市本町5丁目の「シシュウ ギャラリー」に飾ってある。

 (大澤紀代美さんは全国で初めて、刺繍の「現代の名工」に選ばれた)

報奨金の10万円は

「そういえば、そんなお金、もらったわね。確か、阪神大震災の義援金に寄付したんじゃなかったかしら」

2年後の1996年、今度は黄綬褒章を受けた。これも刺繍職人としては開闢以来のことだった。

(褒章受章祝賀会には、デザイナー山本寛斎氏からの花束も見える)

「その数年前から、そんな話はあったのよ。でも、『刺繍職人? それが何で褒章の対象になるんだ?』というんでお蔵入りになってたんだって。ところが、93年にパリに招待されて個展をやったのね。そうしたら『あのパリで認められるほどのものなのか』というんで評価が急に高まり、おまけに現代の名工にもなっちゃったから急転直下で授賞が決まったって聞いてる。日本人の価値観ってヨーロッパや肩書きに弱いのよね。とんでもなく偉いと思われてる人もきっと同じよ。白人コンプレックス、肩書きコンプレックスを持ってるのかしら。褒章っていったって、その程度のものよ」

刺繍とは大澤さんが頭角を現すまでは、「その程度のもの」でしかなかった。有り体に言えば、単なる下請け職人の内職仕事程度にしか見られていなかった。

朝倉染布第9回 伸縮度

その後改良が進んだが、当時のスパンデックスは塩素に弱かった。塩素に触れるとやがてボロボロに劣化する。ご存じのように、プールの水には殺菌剤として塩素が含まれている。プールで数回泳げばボロボロになってしまうのでは水着としては失格だ。塩素に強いスパンデックスを創り出さねば水着には使えない。
その研究・開発は素材メーカーである東レ・デュポンが引き受けた。

朝倉染布が託されたのは、スパンデックスとポリエステルでできた生地から競泳用水着としての理想的な「伸縮度」を生み出すことだった。

一口に理想的な伸縮度を生み出すというが、極めて難しい作業である。スパンデックスだけで出来た生地ならまだしも、相手はポリエステルとの混紡である。性格が違う2つの繊維のの相性を見ながら、一方のスパンデックスの伸縮度をコントロールしなければならないのだ。その課題をこなさなければ理想的な競泳用水着の生地に仕上げることはできない。

その難しさの一端でも知っていただこうと、朝倉染布がスパンデックスを使った生地を加工する工程を追ってみた。

生地には、製造工程で油分が付着している。これを取り除かなければ染色加工ができない。まず、界面活性剤を含む60℃〜80℃の温水が入った水槽で生地を洗って油分を落とす。

この過程で、生地は2回も縮む。スパンデックスとはゴムのようなものだから、塩ビや紙のパイプに巻かれた生地をほどくと、まず伸ばされていた分が縮む。さらに温水をくぐらせると、その熱で繊維そのものが収縮する。こうして縮む過程で編み目が均一になってくれる。この工程をリラックスと呼ぶ。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第2回 日中の架け橋

日本と中華人民共和国が国交を回復したのは1972年9月のことである。

日本が仕掛けた無謀な戦争が仲を裂き、第二次世界大戦後の中国に誕生した共産主義政権、長く世界を東西に二分した冷戦が「仲直り」を阻み続けた。中華民国(台湾)との間では平和条約を結ぶことが出来たが、中華人民共和国とは隣国であるにもかかわらず行き来できるドアがなく、声を掛け合う小窓すら存在しなかった、法的には戦争状態がそれまで続いていたのである。

当時の田中角栄首相の訪中で、その異常な関係が終わった。日本国民の多くが戦後の平和を実感した瞬間だった。

日中にやっと開かれたドア。
大澤紀代美さんの刺繍画が、そのドアをこじ開ける一助になったのは同じ1972年のことだった。

「紀代美、周恩来総理の肖像画を刺繍でつくって欲しいといわれたんだが」

父藤三郎さんに声をかけられたのは、春の息吹がやっと桐生にも訪れようか、という時期だったと記憶する。
刺繍で肖像画を縫い上げる仕事は、大澤さんが独自に始めた。やがて人が知るようになり、それまでも注文に応じて年に4、5枚は縫ってきた。

「また注文が来たのか」

軽い気持ちで引き受けた。
引き受ける気持ちは軽いが、仕事には万全を期す。

まず、写真がいる。それも、いろいろな角度から撮ったものが欲しい。肖像を描くのだから、本人に似ていなくては話にならないからだ。
だが、大澤さんは似ているだけの肖像刺繍を縫う人ではない。本人に似せるだけなら写真に勝るものはないのである。刺繍で肖像画を描く以上、写真では表現が難しい、その人の「本質」まで糸で縫い上げなければ意味がない、と考える。だから、周恩来総理についての本も読まなくてはならない。読んで、確かな周恩来像を築き上げなければミシンには向かわない。大澤さんはそう考える刺繍作家である。

だが、まだ中華人民共和国とは国交がなかった時代だ。周恩来総理の写真を掲載する雑誌は数少なかった。探し始めてもなかなか見つからない。思いついて、いつか取材に来てくれた共同通信の記者に

「あなたのところには報道用の保存写真があるんじゃない?」

と聞いてみた。彼は二つ返事で引き受け、間もなく数枚の写真を持ってきてくれた。

本も探した。しかし、ない。今回は諦めざるを得ないらしい。であれば、手元にある写真だけから人物像を引き出さねばならない。写真とにらめっこの毎日が続いた。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第3回 肖像刺繍

「肖像画を刺繍してみようかな」

ふと思いついたのは19歳の時だった。後に詳しく触れるが、この時大澤さんはすでに父藤三郎さんを社長にいただいて会社を興していた。事業は順調で、従業員を数十人抱えて毎日朝6時から午前1時、2時まで仕事に追われ、自由に使える時間なんてほとんどなかったころである。

それでも、時間を盗むようにしてミシンに向かった。注文主のいいなりに縫う刺繍では満たされない思いがあったからだ。
自分の「作品」を縫いたい。創りたい。

子供の頃から絵が好きで、画家になりたいと思った時期もあった。だから、刺繍の仕事を始めてからも、仕事にどれほど追われようと、少し時間が空くと絵筆を握っていた。まだ少女だったからだろうか。女優の絵が多かった。その絵筆を横振りミシンに取り替えたらどうなるだろう?

大澤さんは研究心が旺盛である。

最初に挑んだのは、キム・ノヴァク(Kim Novak)である。チェコ系アメリカ人。アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい」、ジャズピアニスト、エディ・デューチンの生涯を描いた「愛情物語」などで妖艶な美貌をふりまいた。

「あの人のクールな感じが好きでね」

中学生の頃から映画にはまり、毎週2本は見ていた。

雑誌のグラビア写真を見ながら想を練った。

「ポイントは、まず『目』よ」

西洋人の目の色は様々だ。キム・ノヴァクは透き通るような深い緑色の瞳を持つ。

「その色が、光の当たり方で変わるのよね。その変わり方は絵では絶対に出せないの。でも刺繍なら出来る、糸の方向、重ね方を工夫すると光の当たり具合でいろいろな色が出るのが刺繍なんです」

次は髪だ。彼女の髪は薄い金髪、英語ではDyed Blondeという。

「あの色だとウェーブが実にみごとに決まるのよ。日本人の黒髪ではあの感じは絶対に出ないわ」

髪には流れる方向がある。1本1本の髪の流れを刺繍糸で出す。髪も光の当たり方で違った色合いを見せるから、糸の重ね方にも工夫を凝らす。

別にお金になる仕事にしようと思って始めた肖像刺繍ではなかった。大澤さんにとっては、新しい横振り刺繍の技法を編み出すこと、自分が創りたい刺繍を生み出すことが目的だったのだ。肖像画を選んだのは、趣味を絡ませた方が楽しいに違いないと考えたに過ぎない。

時間を盗むようにして肖像刺繍の制作を続けた。一人一人違うモデルの、生の人間性までが見えるようにしたい……。

朝倉染布第10回 色落ち

もう一つ、競泳用水着の生地につきものの悩みがあった。色落ちである。普通に処理したのでは冗談では済まないほど色が落ちる。

スパンデックスはスポンジのように隙間がたくさんあり、その隙間に染料が入り込む。
風呂場でスポンジに石けんをすり込んだところを思い出していただきたい。そのスポンジで身体を洗うと、スポンジの隙間から石けんの泡が程よく出てきて汚れを落としてくれる。スポンジのありがたいところだ。

染めたスパンデックスも、石けんをすりこんだスポンジのような状態になっている。隙間に入った染料がたくさんあり、それがスパンデックスと結合しないままだから押されると出てきてしまうのである。知らずに手で触れると、手が染まってしまう。
スパンデックスほどではないが、ポリエステルも染料の一部が繊維と完全にはくっつかずに繊維の表面に残ってしまい、乾かしたあとでも触れば色がはげてしまう。

この2種類の糸を混紡したのが競泳用水着の生地だ。染色はかなりの難題なのである。

だから、この生地の染色では、しっかり染めながら、でも、いらない染料はすべて洗い落とすという二段構えが必要になる。染料に求められるのは、ポリエステルとはしっかりなじみ、スパンデックスからは落ちやすくなければならないのだ。

だから、染めの工程が終わると、

「還元洗浄剤、という薬剤で、いらない染料をすべて洗い落とさねばなりません」(朝倉剛太郎社長)

それだけならまだ楽、ともいえる。染め上がった競泳用水着には最後の関門が待っている。プールの水だ。
ここには必ず塩素が入っている。殺菌剤として使われているのだが、ご存じのように塩素は漂白剤でもある。日々の練習にも酷使される競泳用水着となると、塩素入りの水に触れている時間は膨大になる。塩素に長時間さらされても色落ちしない最上の染色をしておかないと、ほんの数日の練習で水着から色が抜けてしまいかねない。