ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第7回  個展

見知らぬ人からの手紙を受け取ったのは1975年秋だったと記憶する。天下の日展からは門前払いを受けた大澤さんだったが、そのころには「知る人ぞ知る」刺繍作家として世に認められ始めていた。突然の手紙を受け取ることも増えていた。

差出人を見ると、記憶にない美術関係らしい財団法人名と、差出人と思われる個人名があった。

「いったい何の用だろう?」

いぶかりながら封を開けた。

「あなたの作品を見せていただきました。すばらしい。いま私は美術展を準備しています。あなたの作品を是非出展していただきたい」

といわれても、見も知らぬ人からの依頼を二つ返事で引き受けるわけにはいかない。

「一度お目にかかって詳しい話を伺いたい」

丁寧な返事を出し、相手の日程に合わせて上京した。話を聞くと、長く海外で仕事をしてきた人だという。

「無謀な戦争に打って出て奈落の底まで落ちた日本は、どん底から立ち上がって「奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げました。今では経済力は世界の先進国と肩を並べるまでになっていますが、日本の本当のすばらしさを理解している外国人は少ないように思います。長い海外暮らしでそれを実感し、何とかしたいと思っていた私は、退職して日本の美を世界に紹介する財団法人を立ち上げました。あなたの刺繍は日本が世界に誇ることが出来る美です。世界中の人に是非見てもらいたいと思います。ご協力いただけないでしょうか」

決して饒舌な人ではなかった。だが、一言ずつ絞り出すように口にする言葉は重かった。聞けば、これまでの活動で各国の駐日大使との付き合いも深くなり、展覧会には彼らが多数来てくれるはずだという。

大澤さんは思わず即答していた。

「私の作品で良ければ、こちらからお願いします。出させて下さい」

作品を出しても「出展料」をもらえるわけではない。その場で販売する展覧会でもない。無料奉仕である。

だが、主催者の言葉は大澤さんの胸を打った。それに、

「ミシンで刺繍している人に『作家』と呼ばれる人がいないのよ。美術品としては認められていなかったわけ。だから、もっとたくさんの人に、世界中の人に、ミシン刺繍でも美が生み出せることを知って欲しかったの」

朝倉染布第15回 「ながれ」はいま

勢いがついたものは、軽く押すだけで加速度がつく。

2009年、それまで「ながれ」をデザインしていた担当社員が退社した。デザイン担当がいなくなれば普通は困る。だが朝倉剛太郎社長はこれを好機に変えた。社内デザインをやめたのである。デザインは外のプロから買う。

「それまでの『ながれ』は、超撥水という機能だけで売れていたともいえます。もっと売り上げを伸ばすには、機能に加えてデザインの良さも必要だと考えました。担当社員のデザインではやはり限界がありました」

と踏み切ったのである。
取引先などにデザイナーの紹介を頼みながら、もう一つ試みた。風呂敷デザインを公募したのだ。応募作品の中に、1点だけ優れたデザインがあった。いまでも販売を続けている「綾弧」である。

             

このデザインに最優秀賞を出した。表彰式の日、そのデザイナーと話すと、

「私を、『ながれ』のブランディング・コーディネーターにしませんか」

と提案された。

「ながれ」にはずっと関心を持っていた。今回はデザインで応募したが、出来ればブランド商品に育てたい。ちゃんと育てれば育ってくれる商品だ。任せてくれませんか。

促されて彼の話を聞いた。カタログの作り方、ネット通販のサイトでの「ながれ」の見せ方、商品タグの付け方……。

ずっと下請け加工の世界にいた朝倉染布の中からは生まれない新しい発想がたくさんあった。

朝倉社長に迷はなかった。即座にコーディネーターとして彼と契約した。日を追うように「ながれ」は多彩になり、販売は力強く伸び始めた。

2010年の東京国際ギフトショー。朝倉染布のブースでは、透明プラスチックの箱の中に置かれた超撥水風呂敷「ながれ」に、シャワーの水が注がれ続けていた。超撥水を目で見えるようにしよう、という朝倉剛太郎社長のアイデアだった。「ながれ」の上で水は水玉となって転がり、布には染み込まない。
恐らく、これまで誰も見たことがなかったディスプレーは多くのバイヤーの目を惹きつけたらしい。

「是非、我が社で販売したい」

という取引希望が急造したのである。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第8回  パリ

    大澤さんが、芸術の都パリで個展を開いたのは1993年のことである。

「糸の出会い展」

とタイトルを付けた。
といっても、自分で企画し、準備したのではない。お膳立てされて、それに乗っかった。

「パリで個展をやりませんか」

と誘ったのは、刺繍糸の大手、パールヨットの川口喜八郎社長(故人)だった。確か、1989年のことだ。

「スポンサーもつきますよ。準備はすべてこちらでやりますがどうでしょう?」

大澤さんは若い頃から、自分の刺繍に使う糸は自分で染めていた。しかし、注文が増えて仕事に追われるようになると、糸を染める時間がなかなか取れない。とうとう市販の刺繍糸を使い始めたのは20代後半である。その時手に取ったが急成長中のパールヨットの糸だった。

大澤さんが川口社長と初めて会ったのはそれから10数年後、東京で開かれた刺繍用資材の展示会だった。大澤さんの来場を知って川口社長が挨拶に来た。交わす言葉でパールヨットの糸を使っていることを伝えると、

「大澤さんに使っていただけるとは、光栄です」

と川口社長の目が輝いた。以来、食事をともにする機会が増え、やがて刺繍糸の開発を手伝ったり、川口社長の要請で東京刺繍協同組合の青年部立ち上げを手伝ったりと、付き合いは深まっていた。でも、パリで個展?

パリには一度行ったことがあった。郊外にある布の資料館を訪ね、ルーブル美術館に日参した。刺繍の巨匠といわれるフランソワ・ルサージュに会い、外の人には見せたことがない工房、作業部屋まで案内され、親しく言葉を交わした。一緒にエマニュエル・カーンのプレタポルテの仕事をした縁である。

「そうか、パリか。ルーブルもまだ見足りないし、向こうがやってくれというんだからたいして責任を感じることもないし、まあ、いいか」

パリで個展。芸術やファッションの世界で生きている人なら震え上がるほどの喜びだろう。だが、大澤さんには力みは皆無だった。

スポンサーになったのはパールヨット、日本航空、それにヨーロッパの刺繍糸の大手、フランスDMCである。「糸の出会い展」とは、パールヨットの日本製の刺繍糸、フランスDMCのヨーロッパの刺繍糸の両方を使って縫った刺繍画を展示するために付けたタイトルだった。

大澤さんによると、フランスDMCの刺繍糸はコットンがいい。つや消しの色調に味がある。全体を埋めると重い感じになるが、風景画で要所要所に使えば深みが出る。大澤さんは5、6点の制作に取りかかった。仕上がると、すでに制作済みの作品と合わせて20点ほどをパリに送った。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第9回 銀のさじ

西洋に

「銀のスプーンをくわえて生まれてくる(Born with a silver spoon in one's mouth)」

ということわざがある。富貴な家に生まれついた、恵まれた子供たちのことである。その表現にならえば、大澤さんは銀のさじをくわえて1940年(昭和15年)2月、藤三郎さん、朝子さんの長女として桐生に生を受けた。

      
        (このころ、大澤さんは1歳か2歳だった)

当時の桐生は

「西の西陣、東の桐生」

と呼び習わされる織物の一大産地で、町の豊かさは天井知らずだった。「買い継ぎ」といわれる産地商社が市内の機屋を束ね、桐生の織物を国内外問わずに手広く商って溢れんばかりの富をもたらしていた。

      

父・藤三郎さんは買い継ぎ商だった。広大な敷地に数え切れないほどの部屋がある自宅兼会社は、出入りの機屋、商人、職人、従業員、それに何の用があるのか分からない不思議な人たちが絶えず出入りし、都会の喧噪がそのまま引っ越してきたような賑わいが毎日続いていた。

     

母・朝子さんは東京・麻布の名家の出である。

「だからでしょう、厳しい躾が身についた人でした。父が何をしても、父が一家の大黒柱であるという原則は絶対に曲げないんです。例えば父が夜遊びから戻っても、家族全員揃って玄関で迎えさせました。しかも、みんなで三つ指をついてご挨拶するんですよ。今の人は信じられないわよね、きっと」

昔風にいえば「貞女の鏡」である。だが、何事も男優先の「夫唱婦随」を実践する弱い女ではなかった。

「紀代美ちゃん、男の人って外ではいつも何事にも動じない強い人間を演じなきゃならないんです。でもね、男の人だって泣きたくなることがあるわよ。男の人が泣きたい時に泣けるのは女房のところだけなの。だから女はね、いつでも男の人のつっかい棒にならなくちゃいけないのよ」

朝子さんがそんな話をしたのは、大澤さんがずっと長じてからのことだ。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第10回 絵画

躾を頑として受け付けない箱入り娘は、学齢期になっても一風も二風も変わっていた。

女の子は、おはじきやお手玉、おままごとで遊ぶものとされた時代である。だが、大澤さんはそんな「女の子らしい」遊びには見向きもしなかった。

女の子は綺麗な服をまとった人形が好きだというのが世間の通り相場である。両親は

「少しは女の子らしくなって欲しい」

と願ったのだろう。大澤さんを大きな玩具店に伴い、高価なお人形さんを買ってやろうとする。だが、大澤さんは

「いらない!」

と首を振るばかり。部屋のどこを捜しても、女の子を思わせる小道具はひとかけらもなかった。

代わりにあったのは、工具類である。ペンチ、ニッパー、ドライバー、やすり、きり、ボルト、ナット、釘……。

「そんなものを集めて、ビルや橋を組み立ててたんですよ。いまでいうレゴ遊びみたいなものかしら。それとも建築士にでもなるつもりだったのかな」

友達に女の子はほとんどいない。

「紀代美ちゃん、遊ぼ!」

とやってくるのは男の子ばかりだった。呼ばれて出かけた大澤さんは、日がとっぷり暮れたあと泥まみれになって帰ってくる。

「みんなと野球してたの」

もう一つ、幼い大澤さんが熱中したものがあった。絵画である。いつ、どんなきっかけで絵を描き始めたのかははっきりしない。だが、物心がついた後は、時間があれば画用紙を引っ張り出して鉛筆、クレヨンを走らせた。