ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第4回 背景

視線の鋭さ、光の当たり方による目の表情の変化、毛並みの美しさ、髪の流れの自然さ。大澤さんの刺繍画には、他の追随を許さないいくつもの特徴がある。

それらは、ひょっとしたら他の人の作品と見比べて初めてはっきりする特徴かも知れない。だが、これだけは誰が見てもすぐに気がつく。

大澤さんの刺繍画のほとんどは、背景までが刺繍で仕上げてあることだ。筆者が知る限り、他には例がない。多くは、生地がそのまま露出しているか、別の塗料で塗られているかである。その中で大澤さんは19歳でキム・ノバックの肖像を描き出した時から背景まで刺繍糸で描き出している。

「そんなこと、刺繍が出来れば簡単なのではないか?」

そうお考えになる方もいらっしゃるだろう。だが、広い空間を刺繍で仕上げるのは思うほど簡単なことではない。

例えば、一色だけで背景を創ろうと思い立ったとする。絵の具やクレヨンなら、ただ塗りつぶせばよい。だが、刺繍は糸の方向と重ね方で表情を変える。光が当たればまたまた違う顔を見せる。

「この色で背景を」

と考えても、糸の方向がわずかでもずれると、全く違った背景になってしまう。

「広さ」も問題である。刺繍をするには直径が30cmほどの木製枠で生地を固定する。ミシンで一度に縫えるのはこの枠内の円形だけだ。この部分を縫い終わり、隣の円形を縫う際にも糸の方向を隣の縫い上がった部分と繋がなければならない。やっかいなことに、人の目は実に微妙な差異も見分けてしまう。少しでも角度がずれると、そこに段差を見いだしてしまうのだ。

加えて、木製枠の調整も難題だ。枠は二重になっており、内側の枠に生地をかぶせ、それを外側の枠で固定する。この時、生地は縦方向に強く、横方向に弱く引っ張って生地を張る。その張り方が問題で、強く張りすぎると枠を外した時に生地が縮み、刺繍に凸凹が出来る。張る力が足りないと、刺繍するのが難しい。背景という広い面積に刺繍をするには、毎回同じ力で生地を張らないと、こちらには凹凸が出来、あちらは全体がだらりとしてしまりがない、ということになりかねない。

朝倉染布第11回 魔法の糸と撥水加工

身体の一部を隠すための水着ではなく、速く泳ぐための水着の研究は年を追って拍車がかかった。もっと速く泳げる水着を創り出せ!

激しい開発競争の中で見いだされたのが撥水加工だった。朝倉染布が一度は捨てようとまで考えた撥水加工技術が、水着の性能を飛躍的に高める技術としてにわかに注目を集めたのである。

それまでの素材では、体表の凹凸を減らすのはほぼ限界に達していた。しかし、速く泳ぐにはもっと水の抵抗を減らさねばならない。

サラサラには見えるが、水には実は粘りがある。この粘りが抵抗になって速度を削ぐ。であれば、水の粘りを減らすことができれば抵抗は減るはずだ。そんな発想が生み出した競泳用水着の素材が、ミズノの「アクアブレード」だった。水着の表面に縦縞の撥水加工をするのである。

水着の表面を性質が違う二つの物質で縦縞模様にする。そうすれば、それぞれの上を流れる水の流れが微妙に変わる。違う速さの流れの境界面できる縦の渦が水の摩擦抵抗を減らすのだ。
布の生地とは性質の違う素材。その最適な素材として選び出されたのが撥水加工だったのである。

1996年のアトランタ五輪では、選手の4分の3が、「アクアブレード」を使った英・スピード社の水着を使った。「「ハイテク水着」時代の幕が、この大会で開いた。

2000年のシドニー大会で登場した鮫肌水着は、海水中を高速度で泳ぐサメの肌の研究から実現した。撥水部分をうろこ状にしたのである。

この頃から、水着は身体の一部を隠すものではなく、身体の表面を覆うものになった。肌を水に直接さらすより、水着で覆った方が速く泳げるようになった。競泳用の水着は、「スイム・スーツ」と呼ばれ始める。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第5回 プレタポルテ

いま振り返れば、1970年代代はプレタポルテ(高級既製服)の隆盛期だった。

プレタポルテの語源は、英語でready to wearを意味するフランス語である。それまで既製服は「コンフェクション」と呼び習わされていたが、どうしても「安かろう、悪かろう」のイメージがつきまとっていた。それを払拭しようと1949年、フランスの既製服メーカーが使い出したといわれる。

60年代にはピエール・カルダン、イヴ・サンローランなど、オートクチュール(注文服)の世界を代表するデザイナーがセカンドラインとしてプレタポルテを扱い始め、70年代にはプレタポルテがモードを牽引するようになった。

そして70年代のの隆盛期、ソニア・リキエルらと並んでプレタポルテを先導した一人に、女性デザイナー、エマニュエル・カーンがいた。モデルとしてファッションの世界に入り、1964年、初めてプレタポルテの個展を開いた彼女は、プレタポルテ時代を切り拓いた先駆者でもある。

「大澤さん、フランスの仕事があるのですが、やってみませんか?」

突然声をかけてきたのは、カーンに極東を任されているという、東京在住のデザイナーだった。彼は話を続けた。

カーンはカットワーク(刺繍をした布の内側を切り抜いてレース模様をつくる手法)を大胆に取り入れた服を作る。ヨーロッパ向けの刺繍は、刺繍の第一人者、フランシス・ルサージュに頼む。だが、ヨーロッパと極東では暮らしの習慣が違う。ヨーロッパでプレタポルテを身につける人は電車などには乗らず、運転手付きの車で移動する人ばかりだから大胆なカットを使っても服が傷むことはないが、極東、特に日本ではプレタポルテを着た人が平気で混み合った電車に乗る。大胆なカットワークではよじれたり、悪くすると破れたりする。だから同じカットワークは使えない。極東の生活習慣にあったカットワークが出来る人、ルサージュに匹敵するカットワークが出来る人を捜していた……。

連絡してきたデザイナーが何故自分を知っているのか。大澤さんには分からなかった。しかし、エマニュエル・カーンといえば日本の富裕な人たちが飛びつくように買っている高級ブランドである。そのブランドのもとで、あのルサージュと世界を二分する仕事をする。断るのはもったいない話だ。
それが最初に頭に浮かんだことだった。

朝倉染布第12回 魔法の糸と撥水加工

競泳用水着に革命を起こした「初代レーザー・レーサー」だったが、寿命は長くなかった。

一言で言えば、結果が華々しすぎた。水着のあまりの性能に、記録を塗り替えるのは選手なのか、それとも水着が記録更新の主役なのかが曖昧になった。それに、水泳選手は多くの場合、水着メーカーと契約を交わしている。このため「初代レーザー・レーサー」を使えない選手が現れ、

「公平ではない」

との声が世界中で高まった。
柔道の選手の一部がロボット・スーツを身につけて試合に臨むようなもの、といえば分かりやすいだろうか。

加えて、スピード社を追いかけるメーカーも現れた。「初代レーザー・レーサー」に似た仕組みの水着を造り、それを使った選手が「初代レーザー・レーサー」での記録を塗り替えるケースが出始めた。そのため危機感を持ったスピード社が国際水泳連盟に規約の改定を申し入れたとの話もあるが、真偽ははっきりしない。

いずれにしても2009年7月、国際水連は「初代レーザー・レーサー」の締め出しを決めた。競技用の水着の素材は布地だけしか認めないとルールを変更したのである。

「レーザー・レーサー」に代わる競泳用水着の開発競争が始まった。

「初代レーザー・レーサー」は禁止されたが、競泳用水着の新しい「常識」を創り出した名誉はいまも持ち続けている。水着の、劇的な軽量化である。

身にまとうものは出来るだけ軽い方が記録は伸びる。それは水着用の生地を開発する人々の常識だった。うまくは行かなかったが、より軽い生地を求めて中空の糸で試験的に使ってみた会社もある。

そして、もう一つの古い「常識」が、織物より編み物の方が伸縮性と締め付け度が高いということだった。織物は水着の生地としては使えない、と皆が思い込んでいた。

その常識を、スピード社が塗り替えたのである。ナイロンの織物にすれば水着がはるかに軽くなる。装着にやや手間取りはするが、身につけてしまえばポリエステルの編み物以上の締め付けが得られる。スピード社が採用したナイロンの織物は画期的な生地だったのだ。
新しく創り出す競泳用水着が、「初代レーザー・レーサー」が実現した新しい「常識」を取り入れたものになるのは必然だった。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第6回 デザイナーたち

いまでは「ドン小西」と表現した方が通りがいいかも知れないファッションデザイナー、小西良幸さんとの仕事が始まったのは、カーンとの仕事が終わって間もない1987年のことだった。知り合いの女性に

「小西さんと会ってみませんか」

と誘われ、東京まで足を運んだのだった。

小西さんは1981年に独立、「フィッチ・ウオモ」ブランドを立ち上げ、パリコレクション、東京コレクションなどに出品する新進のデザイナーだった。国内でビートたけし、谷村新司たちに愛用されていただけでなく、世界中に多くのファンを持つロック歌手、エルトン・ジョンも「フィッチ・ウオモ」のファンだった。
華々しい活躍を続ける小西さんはこの当時、新しい路線に挑んでいた。それまで前面に押し出していたニットを、織物に切り替えようとしていたのである。
ところが、ニットでは多彩なデザインを生み出して高い評価を受けた彼だが、織物には苦労していた。織物を生かした新しいデザインを模索中だったのである。

「実は、刺繍を大胆に取り入れたいと思い、あれこれ捜してみたのですが満足な刺繍職人が見つからないのです。いろいろ調べてやっと貴女のことを知りました。大澤さん、お手伝いいただけないでしょうか」

彼が持ち出したアイデアは一風変わっていた。
ジャケットのすべての面を刺繍で埋め尽くしたい。アイデアは固まっているのだが、これまで当たった刺繍職人ではどうしても思ったようなものが出来ない。

すべてを刺繍で埋め尽くすとすれば、仕立てる前の布地に刺繍をしなければならない。刺繍を施した布地を縫い合わせてジャケットに仕上げるので、問題は縫い合わせるときに刺繍の柄がきれいに繋がるかどうかである。それが、これまで頼んだ刺繍職人ではできなかった。

「大澤さん、あなたならやっていただけると思っています」

他の誰にも出来なかった。大澤さんはこの言葉に弱い、永遠の挑戦者だからである。二つ返事で引き受けた。

2年後の東京コレクション。小西さんのジャケットが大きな話題になった。ヒンドゥー教の神、観音菩薩……。背中にも胸にも袖にも、デフォルメされた神や仏が刺繍されている。下絵は小西さんが描いた。その色を決め、縫い目で0.5mmもずれることがない刺繍に仕上げたのは大澤さんだった。

「売れたんだそうですよ。1着100万円も200万円もするジャケットが100着以上売れたんだと聞きました」