朝倉染布第13回 脱下請け

すっかり回り道をした。しかし、急がば回れ。背景をご理解いただくには避けられない回り道だった。これでようやくにして、超撥水風呂敷「ながれ」に戻ることができる。

朝倉染布が「ながれ」を売り出したのは2006年のことである。

染色加工という仕事は「下請け」の色彩が濃い。仕事のほとんどは、長年付き合ってきた繊維メーカー、アパレルメーカーから来る。発注の量も時期も全て相手任せだから工場が仕事に追われたかと思うと、暇で暇で仕方がない時期が続く。それが周年行事である。景気の波にも翻弄されてしまう。快適にサーフィンを楽しむなど、夢の夢でしかない。

それでも、

「最高の品質で染色加工をする」(朝倉剛太郎社長)

創業以来、それが朝倉染布のモットーであり、誇りでもあった。だが、誇りだけでは会社の存続はおぼつかない。

脱下請け。下請けから抜け出すことが出来れば会社の経営は安定するのではないか。そんなぼんやりした思いが幹部や従業員にいつ頃から芽生え始めたのか。いまとなってははっきりしないが、具体化したきっかけは取引先の「夜逃げ」事件だった。

毎月の発注量が、30万円から50万円程度の小さな会社だった。ところが半年ほど前から急に染色加工の発注量が増えた。

「景気がいいのかな?」

と喜んでいた。ところが支払いが滞り始めた。発注量が増えたあと、手形の支払も2回延ばされた。

「変だな」

とは思っていた。だが、長年の取引先である。経営者の夜逃げは想定外だった。その「想定外」が現実になった。取りはぐれた加工賃は約300万円。代わりに、ひと山ほどもある加工済みの水着生地が朝倉染布に残った。
ここに置いておいても意味がない生地である。朝倉染布はその生地を、「夜逃げ会社」が納めることになっていた会社に持ち込んだ。予定していた生地が入ってこなくて困っていたその会社は、喜んで引き取ってくれた。

朝倉染布第14回 得意技術

壁にぶつかったからすごすごと引き返すのでは、前に進むことは出来ない。壁は乗り越えるためにある。

久保村さんを中心に社内で検討を繰り返した。せっかく始めた自販事業を軌道に乗せるにはどうすればいいか。浮かび上がってきたのが、

「自販事業も受注事業も本質は変わらない。朝倉染布の得意技術を活かそう」

という、思いつて見れば当たり前のことだった。

朝倉染布の得意技術を洗い直した。

生地にプリントするには、プリントが栄えるように事前に生地を白く染色する。どこでも出来ることだが、朝倉染布はインクジェットを使い始めて、プリントしやすい生地とそうでない生地があることを知った。大量に事前処理をしてきたからこそ身についたノウハウである。
インクジェットでプリントしやすい生地の販売を始めた。大量の生地をまとめて事前処理するからコストも下がる。中小の事業者に大歓迎された。

次のアイデアは、朝倉染布が何よりも得意とするの撥水加工である。最高の得意技術を自販に生かさない手はない。白や黒など無地に染め上げた生地に撥水加工をして販売した。ダンスウエアの裏生地など、結構な需要があった。

インクジェットでプリントした生地の販売も手がけた。相性のいい生地を選び、最高のプリントをしたのはいうまでもない。

「これは、小さな生地商社やアパレルメーカーに喜ばれました。小さなところは販売量が少ないため、生地をまとめて買うことが出来ません。そんな工場をいくつも束ねる形で朝倉染布が大量に生地を仕入れてプリント加工するから安くなるんです」(朝倉剛太郎社長)

自社技術の組み合わせもありだ。インクジェットでプリントして撥水加工をした生地の販売も始めたことはいうまでもない。

自前製品の販売を始めて3年目には、東京の展示会への出展も始めた。最高の加工をした製品はあっても、それを知ってもらわねば取引先が増えるはずがないからだ。小さなブースに加工済みの生地を並べた。

「私も展示会場に詰めっきりだったのですが、誰も立ち寄ってくれないんです。水をはじくとかいったって、見た目はただの布じゃないですか。布がたくさん並んでいても関心の持ちようはないですよね。これ、あと知恵ですけど」(同)

確かに、生地が並べられただけのブースには何の変哲もない。

「もっと分かりやすい展示にしなければ、とそのままで商品になるものの開発を始めました」(同)

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第7回  個展

見知らぬ人からの手紙を受け取ったのは1975年秋だったと記憶する。天下の日展からは門前払いを受けた大澤さんだったが、そのころには「知る人ぞ知る」刺繍作家として世に認められ始めていた。突然の手紙を受け取ることも増えていた。

差出人を見ると、記憶にない美術関係らしい財団法人名と、差出人と思われる個人名があった。

「いったい何の用だろう?」

いぶかりながら封を開けた。

「あなたの作品を見せていただきました。すばらしい。いま私は美術展を準備しています。あなたの作品を是非出展していただきたい」

といわれても、見も知らぬ人からの依頼を二つ返事で引き受けるわけにはいかない。

「一度お目にかかって詳しい話を伺いたい」

丁寧な返事を出し、相手の日程に合わせて上京した。話を聞くと、長く海外で仕事をしてきた人だという。

「無謀な戦争に打って出て奈落の底まで落ちた日本は、どん底から立ち上がって「奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げました。今では経済力は世界の先進国と肩を並べるまでになっていますが、日本の本当のすばらしさを理解している外国人は少ないように思います。長い海外暮らしでそれを実感し、何とかしたいと思っていた私は、退職して日本の美を世界に紹介する財団法人を立ち上げました。あなたの刺繍は日本が世界に誇ることが出来る美です。世界中の人に是非見てもらいたいと思います。ご協力いただけないでしょうか」

決して饒舌な人ではなかった。だが、一言ずつ絞り出すように口にする言葉は重かった。聞けば、これまでの活動で各国の駐日大使との付き合いも深くなり、展覧会には彼らが多数来てくれるはずだという。

大澤さんは思わず即答していた。

「私の作品で良ければ、こちらからお願いします。出させて下さい」

作品を出しても「出展料」をもらえるわけではない。その場で販売する展覧会でもない。無料奉仕である。

だが、主催者の言葉は大澤さんの胸を打った。それに、

「ミシンで刺繍している人に『作家』と呼ばれる人がいないのよ。美術品としては認められていなかったわけ。だから、もっとたくさんの人に、世界中の人に、ミシン刺繍でも美が生み出せることを知って欲しかったの」

朝倉染布第15回 「ながれ」はいま

勢いがついたものは、軽く押すだけで加速度がつく。

2009年、それまで「ながれ」をデザインしていた担当社員が退社した。デザイン担当がいなくなれば普通は困る。だが朝倉剛太郎社長はこれを好機に変えた。社内デザインをやめたのである。デザインは外のプロから買う。

「それまでの『ながれ』は、超撥水という機能だけで売れていたともいえます。もっと売り上げを伸ばすには、機能に加えてデザインの良さも必要だと考えました。担当社員のデザインではやはり限界がありました」

と踏み切ったのである。
取引先などにデザイナーの紹介を頼みながら、もう一つ試みた。風呂敷デザインを公募したのだ。応募作品の中に、1点だけ優れたデザインがあった。いまでも販売を続けている「綾弧」である。

             

このデザインに最優秀賞を出した。表彰式の日、そのデザイナーと話すと、

「私を、『ながれ』のブランディング・コーディネーターにしませんか」

と提案された。

「ながれ」にはずっと関心を持っていた。今回はデザインで応募したが、出来ればブランド商品に育てたい。ちゃんと育てれば育ってくれる商品だ。任せてくれませんか。

促されて彼の話を聞いた。カタログの作り方、ネット通販のサイトでの「ながれ」の見せ方、商品タグの付け方……。

ずっと下請け加工の世界にいた朝倉染布の中からは生まれない新しい発想がたくさんあった。

朝倉社長に迷はなかった。即座にコーディネーターとして彼と契約した。日を追うように「ながれ」は多彩になり、販売は力強く伸び始めた。

2010年の東京国際ギフトショー。朝倉染布のブースでは、透明プラスチックの箱の中に置かれた超撥水風呂敷「ながれ」に、シャワーの水が注がれ続けていた。超撥水を目で見えるようにしよう、という朝倉剛太郎社長のアイデアだった。「ながれ」の上で水は水玉となって転がり、布には染み込まない。
恐らく、これまで誰も見たことがなかったディスプレーは多くのバイヤーの目を惹きつけたらしい。

「是非、我が社で販売したい」

という取引希望が急造したのである。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第8回  パリ

    大澤さんが、芸術の都パリで個展を開いたのは1993年のことである。

「糸の出会い展」

とタイトルを付けた。
といっても、自分で企画し、準備したのではない。お膳立てされて、それに乗っかった。

「パリで個展をやりませんか」

と誘ったのは、刺繍糸の大手、パールヨットの川口喜八郎社長(故人)だった。確か、1989年のことだ。

「スポンサーもつきますよ。準備はすべてこちらでやりますがどうでしょう?」

大澤さんは若い頃から、自分の刺繍に使う糸は自分で染めていた。しかし、注文が増えて仕事に追われるようになると、糸を染める時間がなかなか取れない。とうとう市販の刺繍糸を使い始めたのは20代後半である。その時手に取ったが急成長中のパールヨットの糸だった。

大澤さんが川口社長と初めて会ったのはそれから10数年後、東京で開かれた刺繍用資材の展示会だった。大澤さんの来場を知って川口社長が挨拶に来た。交わす言葉でパールヨットの糸を使っていることを伝えると、

「大澤さんに使っていただけるとは、光栄です」

と川口社長の目が輝いた。以来、食事をともにする機会が増え、やがて刺繍糸の開発を手伝ったり、川口社長の要請で東京刺繍協同組合の青年部立ち上げを手伝ったりと、付き合いは深まっていた。でも、パリで個展?

パリには一度行ったことがあった。郊外にある布の資料館を訪ね、ルーブル美術館に日参した。刺繍の巨匠といわれるフランソワ・ルサージュに会い、外の人には見せたことがない工房、作業部屋まで案内され、親しく言葉を交わした。一緒にエマニュエル・カーンのプレタポルテの仕事をした縁である。

「そうか、パリか。ルーブルもまだ見足りないし、向こうがやってくれというんだからたいして責任を感じることもないし、まあ、いいか」

パリで個展。芸術やファッションの世界で生きている人なら震え上がるほどの喜びだろう。だが、大澤さんには力みは皆無だった。

スポンサーになったのはパールヨット、日本航空、それにヨーロッパの刺繍糸の大手、フランスDMCである。「糸の出会い展」とは、パールヨットの日本製の刺繍糸、フランスDMCのヨーロッパの刺繍糸の両方を使って縫った刺繍画を展示するために付けたタイトルだった。

大澤さんによると、フランスDMCの刺繍糸はコットンがいい。つや消しの色調に味がある。全体を埋めると重い感じになるが、風景画で要所要所に使えば深みが出る。大澤さんは5、6点の制作に取りかかった。仕上がると、すでに制作済みの作品と合わせて20点ほどをパリに送った。