ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第9回 銀のさじ

西洋に

「銀のスプーンをくわえて生まれてくる(Born with a silver spoon in one's mouth)」

ということわざがある。富貴な家に生まれついた、恵まれた子供たちのことである。その表現にならえば、大澤さんは銀のさじをくわえて1940年(昭和15年)2月、藤三郎さん、朝子さんの長女として桐生に生を受けた。

      
        (このころ、大澤さんは1歳か2歳だった)

当時の桐生は

「西の西陣、東の桐生」

と呼び習わされる織物の一大産地で、町の豊かさは天井知らずだった。「買い継ぎ」といわれる産地商社が市内の機屋を束ね、桐生の織物を国内外問わずに手広く商って溢れんばかりの富をもたらしていた。

      

父・藤三郎さんは買い継ぎ商だった。広大な敷地に数え切れないほどの部屋がある自宅兼会社は、出入りの機屋、商人、職人、従業員、それに何の用があるのか分からない不思議な人たちが絶えず出入りし、都会の喧噪がそのまま引っ越してきたような賑わいが毎日続いていた。

     

母・朝子さんは東京・麻布の名家の出である。

「だからでしょう、厳しい躾が身についた人でした。父が何をしても、父が一家の大黒柱であるという原則は絶対に曲げないんです。例えば父が夜遊びから戻っても、家族全員揃って玄関で迎えさせました。しかも、みんなで三つ指をついてご挨拶するんですよ。今の人は信じられないわよね、きっと」

昔風にいえば「貞女の鏡」である。だが、何事も男優先の「夫唱婦随」を実践する弱い女ではなかった。

「紀代美ちゃん、男の人って外ではいつも何事にも動じない強い人間を演じなきゃならないんです。でもね、男の人だって泣きたくなることがあるわよ。男の人が泣きたい時に泣けるのは女房のところだけなの。だから女はね、いつでも男の人のつっかい棒にならなくちゃいけないのよ」

朝子さんがそんな話をしたのは、大澤さんがずっと長じてからのことだ。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第10回 絵画

躾を頑として受け付けない箱入り娘は、学齢期になっても一風も二風も変わっていた。

女の子は、おはじきやお手玉、おままごとで遊ぶものとされた時代である。だが、大澤さんはそんな「女の子らしい」遊びには見向きもしなかった。

女の子は綺麗な服をまとった人形が好きだというのが世間の通り相場である。両親は

「少しは女の子らしくなって欲しい」

と願ったのだろう。大澤さんを大きな玩具店に伴い、高価なお人形さんを買ってやろうとする。だが、大澤さんは

「いらない!」

と首を振るばかり。部屋のどこを捜しても、女の子を思わせる小道具はひとかけらもなかった。

代わりにあったのは、工具類である。ペンチ、ニッパー、ドライバー、やすり、きり、ボルト、ナット、釘……。

「そんなものを集めて、ビルや橋を組み立ててたんですよ。いまでいうレゴ遊びみたいなものかしら。それとも建築士にでもなるつもりだったのかな」

友達に女の子はほとんどいない。

「紀代美ちゃん、遊ぼ!」

とやってくるのは男の子ばかりだった。呼ばれて出かけた大澤さんは、日がとっぷり暮れたあと泥まみれになって帰ってくる。

「みんなと野球してたの」

もう一つ、幼い大澤さんが熱中したものがあった。絵画である。いつ、どんなきっかけで絵を描き始めたのかははっきりしない。だが、物心がついた後は、時間があれば画用紙を引っ張り出して鉛筆、クレヨンを走らせた。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第11回  大将

1947年(昭和22年)9月、桐生市はカスリーン台風と後に命名される暴風雨に襲われた。町を挟むように流れる渡良瀬川、桐生川が氾濫、多くの死者・行方不明者が出ると共に63%の家屋が浸水被害を受けた。

大澤さんは当時、新築間もない家に住んでいた。1944年から3年をかけ、材料を選りすぐって建てられた豪邸である。家中に檜の香りが漂っていた。

新居に移転したのは春。その夏に台風が襲い、桐生川のそばだった大澤家は床上30㎝の浸水被害を受けた。

「私は背負われてすぐ近くの、水が来ていないところに避難させられました」

幸い家族は全員無事だった。が、柱や壁には襲いかかった水の痕がくっきりと残り、あれほど馥郁としていた檜の香りは二度と戻っては来なかった。

家には電蓄があり、当時としては珍しいジャズやブルースがいつもかかっていた。

「ベニー・グッドマンやフランク・シナトラが多かったわ」

大澤さんはこの頃、長唄のお稽古に通わされた。琴や三味線を楽しんでいた母の命令だった。父には反発した大澤さんも、母・朝子さんには従順だったようだ。ワンマンの父に対抗する女同盟を結んでいたのかも知れない。

「稽古に行くのにお付きが2人、それに見張り番が1人ついて来るんですよ」

乳母日傘で育っている女の子が一方ではガキ大将であり、他方ではセミプロについて絵を描き、ジャズのリズムに囲まれ、長唄を学ぶ。なんだかハチャメチャな組み合わせである。
そんな少女は1952年(昭和27年)、中学に進んだ。

間もなく、大澤さんにニックネームがついた。

「大将」

である。

男の子の取り巻きがたくさんいた。ボーイフレンドではない。子分である。
いつしか、先生までが大澤さんを頼りにするようになった。先生が頭を下げに来る。

「おい、大将、頼むわ。あの悪(わる)、何とかしてくれないか」

荒れて手がつけられず、生徒ばかりか先生までもが怖がって近寄らない「不良」をなだめ、意見をするのは大澤さんの仕事であった。
中学生の大澤さんは一大勢力を築いていたのである。

「母を泣かせることが多かったので父には反感を持って育ったんだけど、やっぱり親子なのかなあ。大勢の人たちを差配していた父の血をどこか受け継いでいたのかも知れませんね」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第12回 出会い

出会った日のことは、いまでも明瞭に覚えている。17歳の春だった。

数日前、父の知り合いが遊びに来ていた。日頃から、大澤さんが高校にも行かずに絵に没頭している話を聞いていたらしい。顔を見ると、話を切り出した。

「紀代美ちゃん、いっぱい絵を描いてるんだって? うちねえ、刺繍やってるのよ。絵も刺繍も似たようなものでしょ。一度見に来てみない? 何だったら教えてあげるから」

聞くと、内職でスカジャンの虎や鷲などを刺繍しているのだという。

と言われても、絵に夢中になっていた時期である。そもそも、絵と刺繍は似て非なるものではないか? との思いもある。手刺繍ぐらいはやったことがあったが、ミシンでの刺繍にそれほど魅力を感じたことはない。
いってくれた人は親切心からだったのだろう。だが大澤さんはむしろ、

「私が毎日ブラブラしているように見えるのか?」

と少々ムッとした。とはいえ、相手は父の知り合いだ。無視するわけにもいかない。数日後、仕方なく出かけた。

「一度顔を出せば義理は果たしたことになる、ぐらいの気持ちしかなかったのよ、あの時はね」

自宅から歩いて5分ほどのその家に入ると、10台ほどの電動ミシンが並び、女工さんたちが真剣な目つきで刺繍していた。そのミシンが横振りミシンという呼び名を持っていることを知るのはもう少し先のことである。

大澤さんの目の前で、見る見るうちに刺繍が出来上がっていく。何でもない無地の生地に絵が浮かび上がる。見ているうちに引き込まれてしまった。ミシンの針が絵筆に、針に通った糸が絵の具に見え始めた。

「これよ。私はこれをやるのよ!」

いつしか拳を握りしめ、心の内で叫び始めていた。

「私、ミシンでもっといい絵を描いてみせる!」

次々に生まれてくる刺繍画に魂を抜き取られたのだろうか。ふと気がつくと、来る時は天高くあったお日様が山の向こうに隠れようとしていた。その間、身体を動かした記憶はない。身動きもせず、何時間立ち続けていたのだろう?

フラフラとその家を出て自宅に戻るなり、出迎えた母にいった。

「私、やりたい。あの仕事を覚えたい!」

頭の中は刺繍ミシンが創り出し続ける刺繍画でいっぱいになっていた。

翌朝、母に連れられてその刺繍屋さんを再訪した。

「お願いします。私を雇って下さい。仕事を教えて下さい」

深々と頭を下げた。すぐ後で母の朝子さんが

「どうせ長くは続きません。本人が諦めるまででいいですからお願いします」

と頼み込んでいたことを、この時の大澤さんは知らない。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第13回 20時間

日本の伝統的な技術の世界では、技は教わるものではなく盗むものである。大澤さんが踏み出した世界も、技は先輩の作業を見ながら盗むものだった。

毎日が格闘だった。絵心はあるはずなのに、ミシンの針先から思ったような刺繍が生まれない。線が乱れ、先輩と同じ糸を使っているはずなのに思った色が出ない。何だ、この虎。目が死んでるじゃない。いったい先輩たちはどんな縫い方をしているのか?
だが、誰も教えてはくれない。

毎朝6時に作業場に出て部屋とミシンの手入れを続けながら先輩たちの仕事ぶりを注意深く観察し、大澤さんは技を盗んだ。盗んだ技を改良し続けた。

見よう見まねから始めて半月、やっと商品になりそうな刺繍が縫い上がった。1ヶ月もすると、先輩の作品にも劣らない出来になった。先輩たちは、自分の縫ったものを大澤さんに見せなくなった。追いつかれた、競争相手になったと認められたらしい。

「それで、2ヶ月たったら、先輩たちを抜いちゃってたのね」

1日に仕上げる枚数で首位に立った。
みなと同じ絵柄を縫っても

「大澤さんが縫ったヤツは何か違うよねえ」

と評価されるようになった。

「だって、努力しましたモン」

毎朝6時に職場に出る大澤さんが帰宅するのは毎晩10時を過ぎてからだった。皆が帰ってガランとした作業場で一人ミシンを相手に格闘し、一段落すれば作業場の最後の掃除して鍵を閉める。
思うような刺繍が出来なかった日は、

「どこが悪かったのか?」

と思案しながら家路につく。それから夕食、浴を済ませて床に入る。日付変更線はとうに越えてしまっている。
後で母・朝子さんがいった。

「紀代美ちゃん、あなた、昨日の夜もうなされながら手と足を動かしていたわよ」

大澤さんは夢の中でも横振りミシンと格闘していた。