ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第14回 独立

わずか2ヶ月で、先輩の女工さんたちを追い抜いてしまった大澤さんの技術は、そこで止まりはしなかった。自分に厳しい人である。
刺繍の目に力を持たせるには。
生きているような毛並みに縫い上げるには。
自分で自分にテーマを課し、今日できなければ明日、明日も出来なかったら明後日にはきっと、と自分を励まして乗り越えていった。ハードルを越えるたびに、技術は一段と高くなる。

「もう、ここで学ぶものは何もなくなった」

と退職したのはわずか19歳の時である。仕事を覚えて独り立ちできるようになれば独立するのは、当時の業界では常識だった。勤め先からは記念に刺繍枠をプレゼントされた。

勤めていた刺繍屋さんから後輩の女工さん2人が

「私も連れて行って下さい」

とついてきた。さらに見習いの若い女性も数人加わった。自宅に作業場をつくり、10台連結の横振りミシンを入れた。社長は父・藤三郎さんである。買い継ぎ商で培った幅広い人脈で営業も引き受けた。大澤さんは現場の責任者である。

朝6時には作業場に入り、掃除をしてミシンの手入れをする。終わればミシンの前に座って刺繍に取りかかる。羽織に入れる刺繍、帯に施す刺繍、晴れ着を飾る刺繍……。仕事はいくらでもあった。藤三郎さんは腕利きの営業マンだった。

8時頃に出勤してくる女工さんたちの技術指導も大澤さんの仕事だった。一日でも早く自分のレベルに追いついて欲しいと思うから、

「あんた、これじゃあ竜の目が死んじゃってるでしょう!」

と強い口調で叱責したこともある。

一人一人の技術の進歩度合い、得意不得意に合わせて仕事を割り振る。できあがりを点検する。仕上がりがまずいものは手を入れる。現場責任者の仕事はいくらでもあった。大澤さんが作業場を離れるのは早くても午後10時。ほとんどの日は午前1時、2時までかかった。勤めていた時よりはるかに忙しかった。

「私、睡眠時間が少なくても大丈夫な特異体質なの。いまでこそ6時間ほどだけど、若い頃は4時間寝れば充分だった」

仕事の速さも仕事の質も、少なくとも勤めていた刺繍屋さんでは他の追随を許さなかった大澤さんが率いる刺繍集団である。そこに藤三郎さんの巧みな営業が加わって業績はうなぎ登りに拡大した。わずか1年で有限会社にしたころには、女工さんは20人を数えるまでに増えていた。それだけの人数でかからなければこなしきれないほどの仕事が押し寄せたのである。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第15回 解散

キム・ノヴァクから始めた肖像画は年間3、4枚のペースで縫い続けた。第3回で書いたように、日を追って注文は増え、肖像刺繍作家としての名は上がってきた。

それでも、気持ちが荒むのを止めることは出来なかった。

「多分、父との対立、だったのだと思うわ」

藤三郎さんは作家ではない。あくまで有能な経営者である。社員である娘が刺繍の肖像画を縫うことは認め、営業で売り込みもしたが、会社の利益の多くは、注文を受けて仕上げる刺繍にある。

「紀代美、肖像画ばかりにかまけてないで、取ってきた注文をさっさと仕上げろ」

何度も叱責を受けた。

「私がやりたいのは、どこにでもある刺繍じゃない。私にしかできない作品を縫いたいのよ」

言い方は変わっても中身は変わらない言い合いを何度繰り返したろう。
確かに、理は父にある。会社である以上、まず利益を出さねばならない。いつも引っ込むのは大澤さんだった。

晴れない気持ちのままミシンの前に座り、注文の刺繍を始める。嫌々だから身が入らない。時間がかかり、仕上がりもピリッとしない。

「これ、失敗作だわ。明日縫い直そう」

そう思って作業場に放り出していた刺繍を、藤三郎さんが勝手に注文主に届けるようになった。納期が来たのだろう、とは頭で理解できるが、

「あんな失敗作を客に渡すなんて」

とプライドが傷つき、憤懣がたまる。一段と気持ちが荒む。

「何だかすべてがいやになって仕事を放り出し始めたんです」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第16回 3つ目の不幸

32歳。父が亡くなり、会社がなくなり、家も土地もなくなった。大澤さんを取り巻く世の中がガラガラと音を立てて一変した。
金融機関、かつての取引先、出入りの大工から御用聞きまで、債権者は容赦なかった。先を争うように家にずかずか上がり込み、金目のものを漁った。
それが資本主義の世の中ではあるのだろう。だが、大澤さんの目には周りがハイエナばかりに見えた。

「そんなに欲しいんならくれてやる。全部持っていけ。どうせ私がつくった財産じゃないんだ。勝手にしろ!」

近くに4部屋がある2階建ての家を借り、母と2で人引っ越した。しばらくたつと母・朝子さんがボソッと言った。

「小さな家って、こんなに楽だとは思わなかったわ」

意外な言葉に、母の顔をのぞき込んだ。嘘を言っているのではない。落ちぶれた暮らしを卑下しているのでもない。顔から力みが消えた優しい表情がそこにあった。

「そうか、人の出入りで息つく暇もなかった前の家は母の戦場だったんだ」

失ったものの大きさは身にしみたが、何だかホッとした。
だが、ホッとしても一文なしである。これからどうする?
やっぱり、答えは刺繍しかなかった。私の刺繍で、腕一本で母との暮らしを支えてみせる。

なけなしの金をかき集めて横振りミシンを1台買った。翌1973年夏のことだ。日本製のGOLD QUEENだった。手入れをし、改造をし、今でも使っている愛機である。
仕事はあった。大澤さんの刺繍の腕を評価する注文主はまだまだ多かったのだ。スカジャンや打ち掛けの刺繍である。

「小さな家に越して喜んでいるとはいえ、母は庶民の暮らしを知らないんですよ。お嬢様から奥様になってそのまま生きてきた人ですから」

母・朝子さんに不自由のない暮らしをさせる。そのためには仕事のえり好みなんかしてはいられない。気が向こうが向くまいが、仕事は何でも引き受ける。
大澤さんは一心不乱にミシンと取り組み始めた。

二つも重なった不幸から自分の力で抜け出す。大澤さんはそう心に誓ったのである。刺繍を続けていけば、豊かでなくとも、母と2人の落ち着いた暮らしが取り戻すはずだった。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第17回  死のう

眼球の奥底に網膜と呼ばれる部分がある。眼球のレンズを通して入ってきた映像が像を結ぶところで、フィルムカメラのフィルム、今風のデジカメなら撮像素子に当たる部分である。網膜炎とは、網膜に不要な光が来ないように守っている色素上皮細胞に小さな穴が空き、水がしみだしてたまる病気である。フィルム、撮像素子の前に障害物が出来るわけだから、その部分だけ像が歪んだりぼやけたり、あるいは見えなくなったりする。自然に治ることが多いというが、大澤さんの場合は自然治癒しなかった。

いまでも、治療法として挙げられるのはレーザー治療である。水漏れを起こしている部分を焼き固めて穴を塞ぐ。

大澤さんはすでに自然治癒が期待できる段階を通り過ぎていたため、入退院を繰り返しながら何度かこの治療を受けた。目に麻酔をかけ、キセノンランプの強烈な光を左目に照射する。

人が一番不安を感じるのは、我が身に起きた病の原因が分からず、治療の可能性も不透明な時だろう。
目が見えなくなるかも知れない。目が見えない横振りミシンの職人ってあり得るか? あり得ない。だったら、ほかに出来ることはあるか? ない。ではどうする……。

大澤さんは落ち込んだ。不安に身を焼かれた。何しろ、自分の腕一本で母と2人生きていこうと心に決めたばかりの時期である。落ち込み方は半端ではなかった。

「お母さん、私、刺繍以外にできそうなこと、ないんだよね」

母・朝子さんにそんな話をした。

「あの話をした時はね、目が見えなくなったら自殺するから、って伝えたかったんです。私の勝手な思い込みかも知れないけど、母も私の思いは分かってくれたようでした。

死ぬ。じゃあどうやって死のうか。
多摩川の近くに住む親戚の家に遊びに行ったとき、水死体を見たことがある。

「あれ、無残ですよねえ。死んでもあんな姿にはなりたくない。だから入水自殺はやめようと」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第18回 悲母観音

右目だけは助けたい。その闘いは、さらに1年半ほど続いた。相変わらず自宅での静養、具合が悪くなれば入院、の繰り返しだった。

大澤さんにとっては視力を守り通せるか、失うかの闘いではなかった。生きていくことが出来るか、自殺するかの闘いだった。文字どおり、命をかけた闘いだったのである。
だが、そんな闘いのさなかにあっても、この人にはどうしても消せないものがあった。絵と刺繍に向けた、身体の奥底から吹き出してくる熱気である。

「最初の1年は絵を描いていました。フッと気がつくとスケッチブックを開いて鉛筆を持ってるのよ。お医者様にいわせれば、しょうがない患者だわね」

鉛筆を動かしながら、大澤さんは徐々に変わり始めた。
最初に訪れたのは、人生に対する冷めた気持ちである。

「自分の人生が決まっちゃったような気になって、そうしたら、自分や他の人が生きていることとが、何だか遠くに感じられるようになって、あれがどうだ、これがどうだ、あの人がこういった、こうした、なんてことがどうでもいいことのように思え始めたのよ」

では、遠くから眺めた自分の生とは何か?

「そう考え始めて、あ、私は刺繍に惚れてるんだな、って心の底から分かったんですよ。私には刺繍しかないんだって。病気になって、他にいい仕事、楽な仕事はないものだろうか、なんてことも考えた。母の暮らしを支えなきゃいけない、とどこかで思ってましたからね。でも、どう考えても、私には刺繍しかできないの。刺繍じゃなきゃいけないのね。刺繍がなければ私は生きていけないの。そりゃあ、周りから見れば、それまでの私にだって刺繍しかなかったわよ。でもね、ああ、私って、そんなに刺繍が好きで好きでたまらなかったんだって身体の芯から納得したのは、病気をして初めてだったんですよ」