わずか2ヶ月で、先輩の女工さんたちを追い抜いてしまった大澤さんの技術は、そこで止まりはしなかった。自分に厳しい人である。
刺繍の目に力を持たせるには。
生きているような毛並みに縫い上げるには。
自分で自分にテーマを課し、今日できなければ明日、明日も出来なかったら明後日にはきっと、と自分を励まして乗り越えていった。ハードルを越えるたびに、技術は一段と高くなる。
「もう、ここで学ぶものは何もなくなった」
と退職したのはわずか19歳の時である。仕事を覚えて独り立ちできるようになれば独立するのは、当時の業界では常識だった。勤め先からは記念に刺繍枠をプレゼントされた。
勤めていた刺繍屋さんから後輩の女工さん2人が
「私も連れて行って下さい」
とついてきた。さらに見習いの若い女性も数人加わった。自宅に作業場をつくり、10台連結の横振りミシンを入れた。社長は父・藤三郎さんである。買い継ぎ商で培った幅広い人脈で営業も引き受けた。大澤さんは現場の責任者である。
朝6時には作業場に入り、掃除をしてミシンの手入れをする。終わればミシンの前に座って刺繍に取りかかる。羽織に入れる刺繍、帯に施す刺繍、晴れ着を飾る刺繍……。仕事はいくらでもあった。藤三郎さんは腕利きの営業マンだった。
8時頃に出勤してくる女工さんたちの技術指導も大澤さんの仕事だった。一日でも早く自分のレベルに追いついて欲しいと思うから、
「あんた、これじゃあ竜の目が死んじゃってるでしょう!」
と強い口調で叱責したこともある。
一人一人の技術の進歩度合い、得意不得意に合わせて仕事を割り振る。できあがりを点検する。仕上がりがまずいものは手を入れる。現場責任者の仕事はいくらでもあった。大澤さんが作業場を離れるのは早くても午後10時。ほとんどの日は午前1時、2時までかかった。勤めていた時よりはるかに忙しかった。
「私、睡眠時間が少なくても大丈夫な特異体質なの。いまでこそ6時間ほどだけど、若い頃は4時間寝れば充分だった」
仕事の速さも仕事の質も、少なくとも勤めていた刺繍屋さんでは他の追随を許さなかった大澤さんが率いる刺繍集団である。そこに藤三郎さんの巧みな営業が加わって業績はうなぎ登りに拡大した。わずか1年で有限会社にしたころには、女工さんは20人を数えるまでに増えていた。それだけの人数でかからなければこなしきれないほどの仕事が押し寄せたのである。