「今になって考えると、無謀だったと思いますよ」
と大澤さんはいう。無謀とは、愛誠園の園長さんが去って1週間もしないうちに和筆を手にして下絵を描き始めたことをいう。下絵は刺繍を始める準備作業である。大澤さんはすっかり「悲母観音」と園長さんに魅せられ、刺繍をしようと心に決めたのだ。
「失明してもいいと覚悟を固めたかって? うーん、そんなことは考えなかったですね。というか、何にも考えなかった。ただ、悲母観音を縫いたい、という思いだけでした 」
いや、何も考えなかったわけではない。1972年に身罷った父・藤三郎さんが
「観音様の姿を見た」
という一言をいまわの際に残していた。
「それを思い出して、私が病と闘っているこの時期に観音様の仕事が来るなんて、何かのお導きではないか、と感じたんですよ」
大澤さんは仕事を再開した。もちろん、医師には内緒である。
刺繍をする時、下絵は描かないのが大澤流である。下絵はすべて頭の中にある。図案を示されても、その通りに縫わないのも大澤流である。大澤さんの感覚で図案は描き替えられ、仕上がりは大澤さんだけの作品になる。
「悲母観音」では、大澤さんはこのルールを捨てた。狩野芳崖への敬意のためである。あるいは、父が最後に見たという観音様を慕う思いもあったのかも知れない。
「ええ、これだけは私の絵になってはいけないと思いました。とにかく、もとの絵に忠実でなければいけないと」
作業は体調と相談しながら慎重に進めた。ミシンの前に座ったのは半年ほど後のことである。
「大丈夫なの?」
母・朝子さんが心配そうに声を掛けた。
「大丈夫よ」
自分でも大丈夫とは思えなかったが、それでも縫いたい衝動は抑えられないのだ。そう応えるしかない。それからは母も何も言わなくなった。
「きっと、この子は自分でやると思ったら何を言っても無駄だと分かっていたからでしょう。何も言わないけど、きっとハラハラしていたはずです」