デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第13回 ロンドン

大学2年。片倉さんは、まだ卒業後の進路を決めていない。大学で学んでいたシステムデザインには何となくしっくりこない感じを持ち始めていた。この世界が好きなのかどうか。考えてみれば、そんなこともはっきりしないまま学んでいた気がする。
だが、これまで勉強を続けてきたのである。これから違った選択肢を選ぶのはリスクがある。どんな分野を選ぼうと、すでにその分野で研鑽を積んでいる同輩がいる。今から追いつけるか?

その年、片倉さんは友人に誘われて、アメリカ・ニューヨークに遊びに行った。それまでは

「私は自主的に鎖国をしていました」

英語ができなかったからである。
ニューヨーク、シカゴ、ナイアガラの滝、サンフランシスコ、ヨセミテ公園とアメリカの旅を続けた。
旅をしている間に、何かが変わった。片倉さんたちを受け入れた友人の住んでいたアパートは、日本のものと全く違っていた。すべてが大きい。
アメリカは人種の坩堝だった。日本にも外国人の居住者が増えたが、その比ではない。
そして、英語ができる日本人がまぶしく見えた。カッコいいのである。
新しい世界を知る。それは人生の選択肢を増やすことでもある。

「あ、海外で暮らすっていうのもありなんだな。知らずに過ごすのはもったいない、と思い始めたんです」

卒業後の進路に迷いが消えたのは、この旅のおかげである。

「私はデザイナー、クリエーターになる」

高校以来募っていたファッションへの思いが抑えがたいほど大きくなっていた。
ファッションを楽しむだけでなく、自分で創り出したい。そのためには日本にいてはダメだ。ファッションの本場、海外で学ばなくては。

まず、ニューヨークを考えた。一度行ったから多少の土地勘はある。だが、あの町に住むことには何となく違和感があった。あまりに日本での暮らしとかけ離れていると感じたためだろう。

「よし、ロンドンに留学する」

イギリス人は歩きながら考える、といわれる。そのためだろう、原理的な発明が多い国である。

「クリエータに育つためには、デザインを学ぶためには、ロンドンが最適だろう」

それに、イギリスには好きなバンドがいた。アンダーワールド(Underworld)である。彼らの「Born Slippy」という曲が1996年に公開された映画「トレインスポッティング」(Trainspotting)のラストシーンに使われていた。一度聴いただけで惹きつけられた。そして彼らはデザイン会社「TOMATO」を持ってデザインや映画の制作を進めている。やっぱりロンドンだ。

インターネットを駆使して、学校選びを進めた。ロンドン芸術大学のキャンバーウェル・カレッジに1年、そこを出たら同じ大学のチェルシー・カレッジに進む。
そう決めると、通っていた東海大学で英会話の授業に出始めた。

「全くできなかったので、やらないよりいいだろう、程度の勉強でしたが」

準備を終えると、両親に話した。

「デザイナー、クリエータになりたい。ロンドンに留学したい」

長男がやっと大学を出る。親としては

「やっと親の責任が果たせた」

と一安心する時である。が、さらに海外で学びたいという。それも、特殊な能力を持つ人が集まるファッションの世界のクリエーターになるためだという。
県立研究機関の職員だった父・義則さんにとっては考えてもみなかった息子の進路だろう。だから、

「反対されるのではないか」

と覚悟していた。そのときの説得の言葉も用意していた。
だが、義則さんはいった。

「お前の人生だ。お前が決めたのなら、そうすればいい」

父が示した条件は、今の大学を卒業することだけだった。

1999年4月、大学卒業から間もなく、片倉さんはロンドンに向かう飛行機に乗り込んだ。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第12回 ファッション少年

多くの人を魅了し、心を明るくする、暮らしを豊かにするもの。片倉さんはファッションをそう考える。

ファッションに関心を持ったのは高校生の時だった。一念発起して私立高校に挑んだ片倉さんは、東海大学付属相模高等学校に入る。そこでH君と知り合った。アパレルメーカー経営者の子息だったからだろう、雑誌のグラビアページから飛び出してきたようにおしゃれだった。ファッション雑誌をいくつも読んでいるらしく、知識が豊富である。話していても、わからない単語がポンポン出てくる。

「私は、といえば、両親が着るものにそれほど気を使いませんでしたのでファッションにはあまり関心がない。服装もみんなと同じようなものばかりで」

そんな2人が、何故か気が合った。

「おい、今度の日曜日、渋谷から原宿に回ろうと思うんだ。付き合えよ」

いつしか、月に1、2度はH君と、若者のファッションのメッカといわれる東京・原宿に出るようになった。最初はH君の買い物に付き合うだけだったが、羨ましくなるほど服を買い集めるH君に感化された。小遣いをため、時には自分でも服を買うようになったのである。

「服を自分で買ったのは中学時代以来でした。中学生の時は、ケミカルウォッシュのジーンズに憧れてEdwinのやつを買った。原宿で初めて買ったのは、チャンピオンの古着のスウェットでした。確か、1万円ぐらい。枯れた感じが何ともカッコよくて。両親は服装に関心がない。だから、自分の小遣いを貯めて買ったとはいえ、何だか後ろめたい思いがして、しばらく罪悪感が」ありました」

だが、一度燃え始めたファッションへの憧れは、罪悪感を大きく上回る勢いだったようだ。片倉さんの原宿詣では頻度が上がる。
ショップを訪れても、最初はH君が店員と親しく話すのを訊いているだけだった。ファッション用語も余り知らないのだから仕方がない。だが、聞いていればいつしか言葉を覚える。知識が増える。いつしか自分でも、店員と会話をするノウハウを身につけた。

ショップによって強いジャンルが違うことを知った。この店はTシャツに強い。ヴィンテージもののGパンなら、あの店だ。掘り出し物が揃っているのは、あっちの店……。

父・義則さんは公務員である。家庭は決して豊かではなかった。だから、ショップを回りながら、買わずに帰ることが多かった。しかし、知識は増える。

「LEVI’Sのジーンズは、年代によって呼び名があるんです。例えば、1970年代前半の製品はビッグEと呼ばれます。60年代はLEVI’SのEが、小文字のeでした。それが大文字のEに変わったからです」

10万円ほど奮発してヴィンテージモデルのジーパンを3本買ったのは、高校3年の時だった。

「親戚が多いので、お年玉が結構集まりました。それに、祖父の家には八重桜の木が沢山あり、季節になると桜茶の材料にするため花を摘んで出荷するんですが、これがいいアルバイトになりました」

高校時代は、アメカジ(American Casual)が好きで、専ら古着を探し歩いた。大学に入ると、関心は古着からデザイナーズファッションに移る。いつの間にか、ファッション仲間は4人に増え、原宿、高円寺を闊歩した。

「町を歩いていると、結構声をかけられるんです。『ファッション雑誌に載せたいんだけど、写真を撮ってもいいかな』って。一番多かったのはO君ですね。私? 私が声をかけられたのは1回だけです」

出入りするショップも変わった。いわゆるセレクトショップである。もう会話に不自由することもなかった。相変わらず、買い物をすることはあまりなかったが、それぞれの服を作った人のこだわり、工夫など、店員の話はファッション奥深さを教えてくれた。

まだデザイナーになろうなどとは、爪の先ほどにも考えていない。しかし、後で振り返れば、片倉さんはデザイナーへの1本道を歩いていた。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第11回 洗う研究室

片倉さんが同僚の飯野尚子さんを誘って、「洗う研究室」を立ち上げたのは2016年か17年のことだ。

時折、「000」の修理依頼がある。金具が壊れたり、無理に引張って糸が切れたりした「000」が戻って来る。買って頂いた「000」はできるだけ長く楽しんでいただきたい。そう願う「000」チームは、出来るかぎり修理に応じる。飯野さんはその担当である。

「だけど、これ、洗った形跡がないよね」

修理にやって来た「000」を見ていて、片倉さんがふと気が付いた。「000」はすべて糸でできたアクセサリーだ。肌の上に着けるものが多いから、どうしても汗が染み込んで汚れる。だから、「000」の箱には取扱説明書を入れ、汚れが目立つ前に洗って下さいと呼びかけている。
だが、修理依頼品が洗われていないということは、取扱説明書があまり読まれていないということだ。

そうか、説明書を同梱しているのだから、メーカーの責任はそれで終わり。あとはユーザー責任。私たちにそんな思い上がりがあったのではないか?
考えて見れば、「伝えた」だけでは十分ではない。伝えたい内容を相手が理解して初めて「伝わった」ことになる。

ユーザーは何故洗ってくれないのか。
もっと洗ってもらえるようにするにはどうしたらいいのか。
より簡単に洗う方法はないか?
洗剤の選び方も考えなくては。

そんな思いが次々に沸き上がり、飯野さんを半ば強引に誘って「洗う研究室」を作ったのだ。もっとも、会社の正式な組織ではなく、会社内での自主的な「運動」に過ぎなかったが。

洗うのはきわめて日常的な行動である。何かを洗ったことがないという人はまずいないだろう。だが、「000」のメーカーとして「000」を洗うことをユーザーに理解してもらおうと考え始めると、疑問が次々を沸き起こった。そもそも「汚れ」って何なんだ? 汚れは何故洗剤で落ちるのか? その時、何が起きているのか?

「そうなると、社内には専門知識がありません。専門知識をお持ちの方の助力を得なければなりません」

たった2人の「洗う研究室」は、大阪の石けんメーカーと、桐生市にある群馬県繊維工業試験場に相談を持ちかけた。

社内では「000」を洗う実験を始めた。市販の中性洗剤、合成洗剤、漂白剤、石けん、繊維工業試験場が用意してくれた薬剤。どれが汚れを一番落としてくれるか。洗濯が簡単なのはどれか。湯の温度や洗剤に漬けておく時間を様々に設定した。

困ったのは、汚れた「000」がないことである。出荷を待つ新品の「000」は沢山あるが、落とすべき汚れがまだついていない。社内でボランティアを募った。

「毎日『000』を肌身に着けて汚して下さい」

社員が汚してくれた「000」半分に切った。この半分だけを洗って汚れの落ち方を見るのである。
実験の結果分かったのは、汚れがひどくなると、何を使っても汚れがほとんど落ちないことである。日常的な洗濯が「000」には必要なのだ。
そんな結果を受けて、「000」専用の洗剤を開発しようかとも考えた。それが難しいと分かると、

「じゃあ、汚れにくい『000』にしたらいいのではないか」

と考えた。繊維工業試験場と共同開発したのがトリプルプロテクト加工である。汚れにくく、汚れがついても落ちやすい糸を作り出したのである。2021年秋のことだった。

いまの「000」にはこの加工をした糸を使っている。ただ、それでも汚れから解放されるわけではない。繰り返し身につければ少しずつ汚れは着くし、何度か洗っていれば汚れを防いでいた薬剤が落ちてしまう。

「だから、いまはトリプルプロテクト加工の耐久性を上げる研究を続けている段階です」

汚れから完全に解き放たれた糸は、まだ存在しない。いつかはそんな技術が生まれるのかも知れないが、すべて糸で作るから

・軽くて肩が凝らない
・金属アレルギーがあっても楽しめる

のが「000」なのだ。糸の宿命からはなかなか逃れられない。
だからいまも、洗い方を書いたリーフレットを添えている。紹介しているのは手洗いである。

「気軽に洗濯機に放り込んで洗えるよう、専用の洗濯ネットができないか、とも考えています」

片倉さんは、もっと「000」を楽しんでもいたいと願い続け、開発を続けている。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第10回 13㎜

真珠のネックレスに使われる真珠の大きさは様々だが、一般的には直径6.5㎜から9.5㎜である。「大粒が魅力」とうたう南洋白蝶真珠でも11〜13㎜、10㎜以上がメインというタヒチ黒蝶真珠でも、出回っているのは11〜13㎜が多い。

片倉さんは13㎜に挑戦した。折角なら一番大きな真珠を目指したい。

開発はのっけから苦労の連続だった。思っていた通り、「珠」を大きくすると算盤玉のようなひしゃげぶりが目立つだけではない。糸がバランスを失って「珠」が崩れやすいのである。それに、突き通す距離が伸びるからだろう、針が頻繁に折れる。糸切れにも泣かされた。

「どこがいけないんだ?」

パソコンで「珠」への針の落とし方の画像を拡大して解析した。無理な力がかかっていそうなところは0.1㎜単位で針をずらした。
「珠」を作る糸の重ね方も改良した。
改良に次ぐ改良、といえば前向きに聞こえるが、現実は失敗に次ぐ失敗である。なかなか13㎜の「珠」は姿を現してくれない。

だが、あのトーマス・エジソンは

「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、上手くいかない方法を見つけただけだ」

という言葉を残している。成功するためには失敗を積み重ねなければならないのである。

片倉さんは諦めなかった。すべての可能性を試してみるまでは、できないと言ってはいけないのだ。
そのころ、自宅を建てた。設計士と話していて、住宅建設の要諦は基礎にあると教えられた。地盤改良、基礎工事の大切さである。

「そうか。ひょっとしたら『珠』も同じなのではないか? 基礎を考え直そう!」

「珠」の中心に小さな空洞をつくってみた。球をつくるのにそんな手法があると、何かで読んだ記憶が蘇ったのだ。
思った通りだった。中心部に小さな空洞を持った「珠」は丸みが増した。安定感も生まれた。もう、13㎜でも算盤玉ではない。

    13㎜の珠を使ったネックレス1
    13㎜の珠を使ったネックレス2

 

「最初に『珠』を創った時に比べれば、あの時の開発努力で土地勘みたいなものが出来上がっていたので、それほど苦労をしたとは思いません」

片倉さんはそういうのだが、再び片倉チームは、「不可能」を「可能」にした。

そして片倉さんはここでもデザイナーとしての欲を出した。シャネルのネックレスに多い何重にも巻くネックレスにしようと思ったのだ。それもシャネルとは違い、1本だけでもアクセサリーになる。だが、2本、3本と増やしてもエレガンスを失わないデザインに挑んだのだ。

   

そして2014年のインテリア・ライフスタイル展。「笠盛」ブースには、直径13㎜の「珠」も入った「スフィア」が並んだ。注目度が一段と高まったのはいうまでもない。

片倉さんは、2013年に出品した「スフィア」を、「スフィア1.0」と呼ぶ。そして、2014年に出したのは「スフィア2.0」だ。直径8㎜だった「玉」が13㎜に成長した。
4年目は「スフィア3.0」ができた。ずっと悩まされていた算盤玉が、やっと出っ張りのない「球」になった。
いまは「スフィア4.0」の時代である。糸の重ね方を改良し、「珠」が崩れにくくなった。

思えば、当初は50%にも達しなかった歩留率が、いまでは90%を超えている。「000」の「スフィア」は成長を続けている。

——どこまで成長するのですか?

と聴いてみた。片倉さんは

「さあ、天井がどこにあるのか、私にも分からないのです」

と答えた。

ついでに、質問を重ねた。

——改良にも苦労されたようですが、そもそも、刺繍の職人さんからも「無理だ、できない」といわれた「珠」をどうしても創り出そうと決意したのは何故なのですか? 「KASAMORI LACE」を手がけてモーダモンまで出かけながら、なかなか実績が上がらなかった。クッションをなくした『000』はアクセサリーが支えなければならない。そんな焦り、切迫感がありませんでしたか?

片倉さんはしばらく考え込んで答えた。

「焦り、はありませんでした。いま考えると、会社の中での自分の振る舞い方というより、クリエーターとして何かを生み出したいという思いが強かったように思います。私が何かを創り出せば、それが会社に貢献することになるのだろう、と考えていたようです」

これまでなかったものをつくりだすクリエーターとは、そのような人らしい。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第9回 インテリア・ライフスタイル展

2013年のインテリア・ライフスタイルスタイル展には4種類のネックレスを出展した。「スフィア プラス」が3種類、それに「スフィア カラー」(カラーは衿のこと)である。

      スフィア カラー

名前は「スフィア(球)」である。前述したようにそれぞれ6色使ったから、客の目には18種類の「スフィア プラス」が見えたはずだ。

「スフィア カラー」は、左の作品だ。

ほかではあまり見かけない大胆なデザインで、筆者は何となく、クレオパトラのアクセサリーを思い出してしまった。

だが、片倉さんにとっては、どれもまだ完成品ではない。どこまでの評価を得ることが出来るだろうか?そんな思いを抱えての恐々の出品だった。どんな評価を受けるのだろうか?

うれしいことに、反響は予想を遙かに上回った。

「笠盛」のブースが「アトリウム」コーナーに設けられた。主催者が選ぶ一押しのブースを集めたコーナーである。「スフィア」が主催者の大きな評価を受けたためだろう。しかも、そのコーナーのど真ん中が「笠盛ブース」の場所だった。いわば、2013年の目玉ブースに笠盛が陣取ったのである。
この高い評価を、ライフスタイル展の担当者は

   2013年のライフスタイル展、笠盛ブース

「インテリア・ライフスタイル展は、日本の伝統工芸と現代のライフスタイルを結びつけたいと思って開催しています。『スフィア』は刺繍という伝統的な技術をさらに進化させ、現代的なファッションセンスにマッチした、新しい『美』を創り出してくれました」

と説明してくれた。

そして、「笠盛」のブースは、押し寄せるバイヤーで文字通り溢れた。「アトリウム」にブースが設けられた効果もあっただろう。しかし、世界で初めて刺繍で3次元の美を生み出した「スフィア」に、バイヤーたちが強く惹きつけられたことは疑いがない。
次々と商談がまとまった。その勢いはライフスタイル展が終わっても衰えなかった。つられたように、「DNA」も売上が急増した。

作っても作っても間に合わない。相次ぐ注文に追い付こうと刺繍ミシンにつきっきりで生産に追われていた片倉さんは、喜びよりも驚きの目でこの騒ぎを見ていた。どうやら、この熱狂は自分たちが引き起こしたらしい。

「でも、ひょっとしたら夢でも見ているのではないか」

と、頬をつねりたくなったこともある。

熱狂の最中にいながらも、片倉さんの脳裏には、ライフスタイル展で笠盛のブースを訪れたバイヤーの1人が言った言葉がこびりついていた。

「もっと『珠』が大きいのはないのかな?」

珠を小さくしたのは、どうしても算盤玉になってしまう弱みを目立たないようにするためだった。その泣き所をつかれた気がしたからだ。

「よし、期待に応えてやろう。来年までにはもっと大きな『珠』を創ってやろう!」

どうやったらもっと大きな「珠」を作ることができるだろう?
大きな「珠」が出来れば、デザインの幅も広がる。いまの「000」に飽き足らない人にもアピールできるのではないか? そのためにはどんなデザインにしたらいいだろう?

片倉さんは案をこらしながら、「スフィア」を作り続けた。