独立して研究所を作ったのは戦地から戻って間もなくだった。長太郎さんには子息があり、和裁塾は本家筋にまかせて己の道を自分の力で切り拓こうと決意したのだろう。そして、徐々に本領を発揮する。
当時、1着の和服は1人の職人が仕立てていた。簡単な普段着なら仕立てられる職人は多かったが、熟練の職人にしかできない工程がある高級な和服を仕立てられる職人は、機どころ桐生でも、せいぜい100人止まりだった。しかも、その100人も高齢化が進み、多くが70歳以上。これではやがて和裁の技は途絶える。
危機感を持った五三さんは研究所で若い和裁士を育て始めた。
試みは大胆だった。和服の仕立工程を分解し、運針の基本ができたら縫える工程、さらに技術が進まねば縫えない工程などいくつもの段階に分けた。誰も考えなかった分業化・流れ作業を取り入れたのである。そして、各工程についての詳細なマニュアルを作って生徒に与えた。技は「盗む」ものとされてきた和裁の世界では型破りの試みだった。修業時代、技の勘所を文字で残し続けた五三さんならではの革新である。
こうした準備を終えると、仕立て上がりで数千万円もする高級呉服も、研究所の生徒に「部分縫い」させ始めた。
運針の基本ができているところへ詳細なマニュアルを与えられ、毎日実践を繰り返す。生徒は間もなく任された工程に習熟して次の段階に進む。難しい部分は当初五三さんが自ら縫ったが、やがて生徒の腕も上がる。徐々にすべての工程を生徒に任せられるようになった時、生徒は立派な和裁士に育っている。
このシステムが完成した岡田和裁研究所では「練習のために縫う着物」が必要なくなった。運針の基本を身につけるまでは練習用の布がいるが、それが終われば仕立ての注文を受けた和服を生徒が部分縫いする。だから技術の習得に材料費はかからない上、毎日の「稽古」は仕立代の収入を産む。岡田和裁研究所では入学金も授業料もいらないだけでなく、生徒になれば収入もあった(いまはシステムが変わった)。
このユニークな学び舎からは技能グランプリで優勝、上位入賞を果たすプロ和裁士が数多く生まれた。いま振り返れば、その結果は不思議でも何でもない。
写真:岡田五三さん